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専修大リーグ戦3連覇!長沢主将に聞く

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 11月9日、関東大学サッカーリーグ第20節が関東近郊で開催された。東京・江戸川陸上競技場で行われた専大対桐蔭大は、主将のMF長沢和輝(21)、FW仲川輝人(20)が2得点ずつを決め、4-0と快勝。残り2試合を残し、早くもリーグ優勝を決めた。なお、専大はこれで11年、12年に続きリーグ戦3連覇を達成。すでに12月に開催される全日本大学サッカー選手権(インカレ)出場も決定しており、リーグ戦に続くタイトル獲得に期待が高まる。

関東大学リーグ3連覇を達成し歓喜に沸く専修大イレブン

関東大学リーグ3連覇を達成し歓喜に沸く専修大イレブン

 専修大主将・長沢和輝
 ――前々節の筑波大戦では0-2で敗れ、前節の中大戦では2-2と引き分け、勝ちきれない試合が続いていました。
 長沢 最近、引き分けたり負けたりという試合が続き、自分たちの中でも、“なかなかうまくいかな”という感覚がありました。そういう状況でむかえたこの試合では、グラウンドがあまり良くない状態で、(ボールを)つないでも意味がないということで、後ろも割り切ってプレーしてくれたと思います。チーム全体としてやるべきことが統一されていたことが、いい方向に転がったのではないかなと思います。

 ――試合開始12分で早速先制しました。
 長沢 自分たちが先取点を取り、さらには前半最後に追加点を奪えたことがとても大きかったですね。後半は、相手が前に出てくるしかない状況だったので、うちのFWの選手やトップ下の自分がフリーになることが多く、うまく得点につながっていったと思います。今日は僕も仲川(輝人)選手も、あと1点取ればハットトリックでしたが、たとえ点差が開いても攻撃的に展開していくのがうちのサッカー。そういう部分は今日出すことができたのではないでしょうか。

 ――これで大学1年時の2部優勝も含めると、チームは4年間連続タイトルを手にしたことになります。
 長沢 自分は仲間や監督、そしてコーチに本当に恵まれました。もちろん、理想的な展開の試合ばかりではなく、また、年を重ねるごとに専大のサッカーを研究され、思うようなサッカーができない時期もありました。しかし、その中でもなんとか勝ち点を拾い、粘り強く戦えたことがタイトルにつながったと思います。

 ――優勝に至るまで、ターニングポイントになった試合はありましたか?
 長沢 試合ではないのですが、自分の中では今年、教育実習に行った経験が大きかったですね。それまではチームが勝っていたこともありますが、正直、チームや練習のことを考えたりすることは少なかった。でも、教育実習で“指導者”をやらせていただき、“どんな練習をしたら選手にどのように響くか”や、選手の質問に答えていくうちに、指摘しながらも、自分ができてないと気づくことが多々あったんです。選手に伝えながら、同時に自分自身が学べることが非常に多かったですね。この経験をきっかけに、一歩引いたところから、チームを考えられるようになりましたし、そこは自分の中での成長だったと思います。

 ――まだシーズンが終わったわけではありませんが、キャプテンを務めた今シーズン、長沢選手が得たものとは。
 長沢 下級生だった昨年までは、本当に気持ちよくサッカーをさせてもらい、単純に得点すればいい、アシストすればいいというポジションでプレーしていました。しかし、4年生になれば自分のことだけではなく、チームのことも考えるのが当たり前。後輩にどのように声をかけたらいいのか、チームの雰囲気は今どうなのかと、これまでは考えなかったようなことも考えるようになりました。

 ――あらためて伺いますが、大学最後の年にタイトルを獲得した喜びはやはり格別ですか?
 長沢 そうですね、でも、毎年うれしいですよ。ただ、リーグ戦で結果が出たことは非常にうれしく感じていますが、まだまだ自分もやれていない方ですし、通常に比べると不安定だった。また、今は自分たちらしいサッカーがなかなかできていない現状でもあると思います。その中でどのように勝っていくのか――。リーグ戦も残り2節行われますし、その後もインカレ(全日本大学サッカー選手権)もあるので、それぞれ戦い方を考えながら、1戦1戦プレーしていきたいですね。


明大J内定2選手、小川&矢田が会見

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明大Jリーグ加入内定選手会見に出席した左から主将のDF小川大貴とMF矢田旭

明大Jリーグ加入内定選手会見に出席した左から主将のDF小川大貴とMF矢田旭

 明治大学のJリーグ加入内定選手記者会見が12日、都内で行われ、磐田への加入が内定している主将のDF小川大貴(4年)と、名古屋への加入が内定しているMF矢田旭(4年)が出席した。ともに、それぞれの下部組織出身で念願の復帰を果たした2人が、プロ入りへの意気込みを語った。

磐田加入が内定している主将のDF小川大貴

磐田加入が内定している主将のDF小川大貴

小川大貴(4年)
 僕はこれまでサッカー選手になることもそうですが、ジュビロ磐田に入団することを1つの目標として、サッカーを続けてきました。今回、その目標を達成することができ、本当にうれしく思っています。これも神川(明彦)監督を始め、明大サッカー部のスタッフ、チームメイト、家族、そしてサポーターの方々の声援があったからこそだと思っています。僕が大学4年間でサッカー、学業を通して学んだことは、“考える”ということでした。自ら考え、今の自分に何が足りないのか、うまくなるためには何をしなければならないのか、強くなるためには、チームが強くなるためには何をしなければならないのか……それらを常に考え、行動してきた結果が、加入内定の最大の要因だと思います。来年以降も、自ら考え行動し、1年目から試合に出ることではなく、1年間試合に出場して活躍することを目標として、頑張っていきたいです。ケガのため、残りの大学生活はプレーすることができませんが、いろいろな角度からチームを支え、けん引し、リーグ戦、そしてインカレでは優勝できるよう頑張っていきたいと思います。

【磐田内定】小川大貴/明大・DF 前編
【磐田内定】小川大貴/明大・DF 後編

名古屋加入が内定しているMF矢田旭

名古屋加入が内定しているMF矢田旭

矢田旭(4年)
 ジュニアユース、ユースと名古屋グランパスでお世話になり、トップに昇格できなかった時は、非常に悔しい思いをしました。しかし、その悔しさをバネに、4年後には必ず(グランパスに)戻ると強く心に誓い、明治大学の門をたたきました。両肩の脱臼が癖となり、大学3年の夏に手術をしたんですが、それから9カ月間、サッカーから離れることになりました。小学1年でサッカーを始めて以来、初の長期離脱でした。しかし、サッカーから離れたことで、どれだけかけがえのないものかをあらためて痛感することができたと思います。また、同時に、プロの舞台でプレーしたい気持ちがより一層強くなり、頑張ることができました。そういう意味では、この1年が僕にとっては大事な時期になったと感じています。

 こうして名古屋に加入内定が決まったのは、自分の力だけではなく、これまでお世話になった監督、コーチ、スタッフを始め、家族、友達など、僕を支えてくれたすべての人のおかげですし、あらためて感謝したいと思います。まだインカレ出場が決まったわけではありませんが、リーグ戦残り2戦を勝利し、その間に僕はしっかりとケガを治し、インカレでは日本一を目指し、戦いたいです。プロ1年目からしっかり活躍できるよう、“これからが本当のスタートだ”ということを強く意識しながら、頑張っていきたいです。

【名古屋内定】矢田旭/明大・MF 前編
【名古屋内定】矢田旭/明大・MF 後編

文武両道当たり前 明大神川監督に聞く前編

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内的要因と外的要因の2つが関係

 日本代表・長友佑都(インテル)や山田大記(磐田)らを育て、今季も小川大貴(磐田内定)、矢田旭(名古屋内定)と2人のJリーガーを輩出している明治大学。同サッカー部の指揮を執っているのが、今年で監督就任10年目を迎えた神川明彦氏だ。2015年ユニバーシアード日本代表監督就任も決定している同氏に、大学サッカーの意義や次期ユニバーシアード代表監督としての抱負を聞くとともに、そのルーツに迫った。

明大を率いて10年目を迎えた神川明彦監督

明大を率いて10年目を迎えた神川明彦監督

 ――高い能力を持っていても、大学でつぶれてしまう選手もいれば、逆に大きく伸びる選手もいると思いますが、その分かれ道となるのはどのような点だと思われますか?
 神川 内的要因と外的要因の2つが関係していると思います。まず、内的要因は意識の部分。「本当にプロになりたい」とか「向上したい」という気持ちを絶やさず、高い意識を持ち続けられた選手は伸びていくと思います。外的要因は環境ですね。例えば、どのリーグでプレーするのか、関東リーグをとっても、1部なのか2部なのか、1部の中でも上位を争うのか下位を争うのかで違ってくると思います。前者、そして後者とも高い次元で両立しなければ、大学ではJリーグで活躍できる選手が育たない。どれだけ高校時代に活躍し、鳴り物入りで大学に入学したとしても、両者が伴わなければ、次のステップには進めない。もし、進めたとしても、活躍することは難しいでしょうね。

 ――現在、大学サッカーにおいて、その内的要因、外的要因を高める要素は整っているのでしょうか。
 神川 まず内的要因に関して言えば、例えば、つい先日まで一緒にプレーしていた選手がJリーグでプレーしているかもしれないという状況があれば、「雲の上の存在」「向こうの世界」とは思わず、かなりリアリティを持って取り組むことができるのではないかと思います。また、Jリーグと頻繁に練習試合を行うチャンスや、関西であればステップアップリーグ、選手によっては特別指定という形で日常的にプロの練習に参加できる環境があるのも、非常に大きな意味がありますし、そういった環境の中で、選手の意識も徐々に変化し、維持できると思います。

 ――外的要因の面ではいかがでしょうか?
 神川 大学サッカーでもリーグ戦文化が根づき、前後期制の通年で、関東・関西リーグが22試合、北海道、東北、北信越、東海、九州リーグも18試合程度行っています。加えて、天皇杯予選、総理大臣杯予選、総理大臣杯本大会、全日本大学サッカー選手権大会を含めれば、多い大学は年間で40試合近くの公式戦を行うチャンスがあるのです。18歳から22歳の間で、最大年間40試合、4年間で160試合をこなせるわけです。これがもし、Jリーグであればどうでしょうか。現在、年間を通じてJ1は38試合、J2は42試合行われていますが、ここにナビスコ杯や天皇杯をプラスして考えても、試合数は大学と大差ありません。では、高校を卒業したばかりの選手がJリーグでコンスタントに出場できるのかといえば、なかなか簡単にはいかない。大学で1年生からレギュラーになれば、4年間で160試合近くの公式戦を戦うことができるわけです。さらに全日本大学選抜や地域選抜に選ばれれば、さらに公式戦の数が増える。単純に公式戦を経験する、非常に厳しい戦いを経験する機会が増えることは、18歳から22歳の選手にとっては、大きな意味があると思いますね。

 また、現在、大学そのものが日本に700ほど存在しますが、18歳人口が減少しているにも関わらず、大学や学部が新設され、大学間競争がより激化しています。そういった状況下で、大学そのものの生き残りを考えた時、最も効率的なツールとなるのがスポーツです。実際にスポーツ系学部を置く大学が増え、しかも、スポーツの中でもサッカーに比重を置く大学がそれなりに存在している。そういった大学がまず何をするかと言えば、ハード面、環境面を整え、指導者や指導体制といったソフト面も整備する。さらには、選手を入れる入試制度の改善。スポーツの選手をたくさん入学させることができる仕組みを作るのです。大学側としても、これで40、50人×4年間の学費を確保できるわけですからね。毎年ある程度の定員を満たさなければ、大学そのものを維持、運営することは難しい。そういった事情を考えると、スポーツは大学にとっても計算できるコンテンツなのです。

 こうした背景も含めた外的要因、そして内的要因があり、大学サッカーの選手が育ちやすい環境になりつつあるのかもしれません。

サッカーと学業を両立するのは当たり前と説く明大神川明彦監督

サッカーと学業を両立するのは当たり前と説く明大神川明彦監督

 ――神川監督が指導する上でモットーとしていること、大切にされていることはどんなことでしょうか?
 神川 明治大学体育会サッカー部は、『大学の「権利・自由、独立・自治」という建学の精神に則り、「サッカーを通じた人間形成と大学サッカーのトップに君臨することを目的とする」という理念を掲げています。それらを実現するスローガンとして、「礼節を重んじる」「謙虚さと思いやり」「フォア・ザ・チーム」……さらに、「考える力」と「感謝の気持ち」を加え、それらに則って、部を運営しています。もっと噛み砕いていうならば、文武両道ですね。

 明治大学は、私立大学で今、最も志願者を集められる大学になったと思いますが、一般の学生は、厳しい受験戦争を勝ち抜いて入学してきます。そこで、そのような学生たちと机を並べ、勉強できる環境に置かれたスポーツ特別入試で入学した選手たちはどうあるべきか――。それを常に説いています。

 ――具体的にはどういったことをお話されているのでしょうか?
 神川 まず学業が優先であり、サッカーと学業を両立するのは当たり前であって、どちらか一方をすればいいというわけではありません。ですから、常々、学業もスポーツも両立して、初めて特別入試で入ったことに価値がある、と話しています。それは私の考えなのですが、監督して10年目を迎えた今も、徹底していますね。

 ――選手が本来持っている素質も関係するとは思いますが、活躍する選手、成長する選手に共通していることは、何だとお考えですか?
 神川 思考力と柔軟性、適応力といった言葉に表現されるようなことだと思います。例えばプロの世界でプレーする場合、瞬時に判断をしたり、考える癖がついてなければ厳しいでしょう。いつも人に何かを求めているようでは、プロフットボーラーとしてはやっていけない。だからこそ、自分で常に発信していく、自分から常に求めていくというように“自分発信”をしなければならない。結局は、自分で自分の人生を切り開いていかなければならないわけですからね。そういった部分は大学4年間で成長しうる部分だと思います。

 ――これまで多くのJリーガーを育てていらっしゃいますが、毎年、プロに選手を送り出さなければならないというプレッシャーを感じることはありませんか?
 神川 まったくありませんね。ただ、現4年生の小川大貴(磐田加入内定)や矢田旭(名古屋内定)、昨年でいえば阪野(豊史・現浦和)や三田(啓貴・現東京)らにせよ、彼らが高校時代に所属していたクラブ首脳陣は「トップチームに戻ってきてほしい」という想いを持って明治大学に送り出してくれている。私も指導者のプライドとして、彼らを所属していたクラブに戻したいという気持ちは強かったですね。そういった意味では、今年も小川も矢田もそれぞれのクラブに戻すことができ、喜びを感じるとともに、ホッと胸をなでおろす面もあります。(後編につづく)

 ◆神川明彦(かみかわ・あきひこ) 1966年7月9日神奈川県生まれ。鎌倉高校、明治大学卒。1994年から2003年まで明治大学サッカー部のコーチを務め、2004年から同チームの指揮を執っている。2007年、2010年に関東大学サッカーリーグを制覇し、2009年には全日本サッカー選手権大会でも優勝。2015年に開催されるユニバーシアード競技大会光州(韓国)大会に出場するユニバーシアード日本代表監督に就任した。

優秀山田、別格長友 明大神川監督に聞く後編

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長友のハートを正した炎のキャプテンキム・テギョン

 日本代表・長友佑都(インテル)や山田大記(磐田)らを育て、今季も小川大貴(磐田内定)、矢田旭(名古屋内定)と2人のJリーガーを輩出している明治大学。同サッカー部の指揮を執っているのが、今年で監督就任10年目を迎えた神川明彦氏だ。2015年ユニバーシアード日本代表監督就任も決定している同氏に、大学サッカーの意義や次期ユニバーシアード代表監督としての抱負を聞くとともに、そのルーツに迫った。

明大監督就任10年目を迎えた神川明彦氏

明大監督就任10年目を迎えた神川明彦氏

 ――神川監督は、次期ユニバーシアード代表監督就任が決定しています。
 神川 現1、2年生だと、各大学でレギュラーを獲得している選手も多くないので、12月の選考合宿はある程度、代表実績がある選手や、コンスタントに試合に出ている選手を中心に招集し、実際に近くで見る、というところからのスタートになると思います。やはり「代表」ですから、メンタリティーの部分は絶対的に外せないと考えていますし、よく聞かれる言葉ではありますが、選手たちには、「日本代表としての誇りと責任」をしっかりと感じてもらいたい。招集した際は、選手には練習も生活もしっかりと規律を持って臨んでもらいたいですし、「ちょっと厳しすぎなんじゃないの?」というくらい、厳しく、そして激しくてもいいと考えています。

 ――その意図は?
 神川 いろいろな大学の試合を見ていますが、もちろん明治大学も含め、選手たちの試合前後、試合中の表情を見ていると甘いというか、焦燥感や危機感を感じることができないんです。例えば、これが欧州に行けば、監督も選手もクビがかかっているので必死ですし、まさに毎日が戦い。だからこそ、代表で集まった時は、時間もありませんし、より高いレベルを目指しているであろう選手たちですので、“ゆとり”は排除し、厳しく激しくいこうと考えています。歴代ユニバーシアード代表の監督は理性的、知性的な方が多かったと思いますが、情熱的で熱血で厳格で……鬼軍曹でもいいですが(笑)、そういうタイプの監督が1人くらいいてもよいのではないかと思っているんです。

 ――次期ユニバーシアード代表は、2016年のリオデジャネイロ五輪出場を目指す世代でもあります。その代表につなげる、送り出すという気持ちはありますか?
 神川 もちろんです。9月の強化部会でも乾(真寛・福岡大学)先生からも話がありましたが、あちらに選手を抜かれることは歓迎すべきことですし、抜かれる選手が多い方が良いということは共有している部分ですね。ですから、今後、チーム作りを行う上で、手倉森誠監督が作るチームとかけ離れた方針は掲げず、情報を共有しながら、強化していきたいと考えています。

 ――神川監督がこれまで育てられた中で、最も印象に残っている選手は?
 神川 手がけた選手の中で最も優秀だと思ったのは山田(大記・磐田)、別格だったのは長友佑都(インテル)ですね。あと、今の明治大体育会サッカー部の礎を築いた2006年度の炎のキャプテン、キム・テギョン。この選手が明大サッカー部の生活習慣を変えたんです。その根本が就職活動。それまでの4年生は「就活です」というと、以降、2、3カ月練習に来なかった。それを見ていた当時3年生のキム・テギョンが「就職活動は、1日すべてを費やさなければいけないほどのものなんですか?」とたずねてきたんです。「そんなことはないよ。(サッカーとの)両立は可能だよ」と話したところ、4年になってキャプテンになると、彼はチームメイトへ就職活動による練習欠席は許さないというルールを作り、それを徹底させたのです。ちなみに、長友のハートを正したのもこのキム・テギョン。まさにリーダーの中のリーダーでした。

2010年福岡大を下し日本一に輝いた明大神川監督(左)。右は川口信男コーチ

2010年福岡大を下し日本一に輝いた明大神川監督(左)。右は川口信男コーチ

 ――先ほど、ユニバ―シアード代表の監督を務める上で情熱的にという話をされていましたが、神川監督のその“情熱”のルーツはどこにあるのでしょうか?
 神川 母の父は第2次世界大戦で「戦艦扶桑」の艦長を務めた阪匡身。(阪匡身氏は)第二次世界大戦の際に、艦隊に撃沈され、戦艦扶桑とともに沈んだわけなんですが、数百人を率いた強烈なリーダーシップを持っていたそうです。また、父方の祖父は国際政治学者で東大名誉教授を務めた神川彦松です。私はそれほど勉強ができたわけではありませんが、論理的に物事を話すのは、父方の血筋かもしれません。そういった両家の素質があいまっていると感じます。ただし、父方にも母方にも、スポーツで名を立てたという人はいないらしく、大学にスポーツ推薦で入学したり、選手、そして指導者として日本一を経験した人は誰もいない。そういう意味でいえば、少し特異なタイプになるのです。

 ――神川監督は以前から指導者になろうとお考えだったのですか?
 神川 中学の時から、「教員になり、サッカーの指導者になろう」という目標は持っていました。高校の3年間はサッカーに没頭してしまい、ほぼ受験勉強をしませんでしたが、幸運にも、明治大学政治経済学部に入学することができ、そして社会科の教員免許も取得することができました。そのまま教員になればよかったのですが、教育実習などを経て、「(想像していたものとは)少し違うな」と感じてしまったのです。教員ではなく、サッカーの指導者になりたい、と。そこで当時の監督から、明治大学事務職員の求人を示していただき、試験を受けたところ合格。最初は選手として神奈川県でサッカーを続け、94年から本格的に指導者としての人生をスタートさせることとなりました。
選手時代、そしてコーチ経験の中で感じたのは、当時、明治大学体育会サッカー部はとても強いチームになるような伝統や文化ではなかったということ。99年に久々に2部に降格した際には、組織が根本的に変わらない限りは、ずっと同じようなことが続く……いわゆる“エレベーターチーム”になるという強烈な危機感を覚えました。積み重なってしまった垢、必要のない文化や風習、習慣を根こそぎ消滅させ、新しいものを築かなければ、この組織は変わらない、そう感じていましたね。選手時代、そしてコーチ時代も砂を噛むような思い、泥をなめるような悔しさも味わいました。そういった過去の経験があるからこそ「なにくそ!」という思いでやってこられていますし、それが大きな原動力にもなっています。

「より選手主体でチーム運営を行う」ことも目標に掲げる神川監督

「より選手主体でチーム運営を行う」ことも目標に掲げる神川監督

 ――そして、2004年に監督に就任されました。
 神川 2003年、明治大学はリーグ2部で4位という結果でした。関東大学サッカーリーグが2005年から12チーム制になることが決定し、2004年は1部8チームはすべて残留、2部は8チーム中、1~4位が1部へ自動昇格ということが発表されていましたが、2003年シーズンの戦いを見て、このままでは翌年、結局、5位に終わってしまうのではないかという危うさを感じずにはいられませんでした。そこで、当時のスタッフミーティングで、「監督をやらせて欲しい」と直訴したんです。すると、総監督がそこで「分かった」とうなづき、翌年から監督に就任することになりました。

 ――就任初年度に監督が着手したことは?
 神川 まずは練習を朝6時から行いました。そして、週に1回の全員ミーティング。さらにはコーチ、トレーナーの導入というソフト面の改善ですね。最初に選手たちには「これからやるミーティングの内容を全員が知っているべきだし、この中で試合に出ないメンバーはたくさんいるけれど、その選手たちもスタンドで試合を見ながら、“神川が意図したことができているか、いないか”判断をしてほしい」と伝えました。とにかく朝からサッカーをして、食事をとる。午後は練習を行わないから、その分、学業に集中しろと。

 ――04年からチームを指揮されて10年。これまで様々な改革を行ってきたと思いますが、これから先の10年で、監督が目指すのはどういったところなのでしょうか?
 神川 これまでも目指してきているのです、なかなか成就しないのが、「より選手主体でチーム運営を行う」ということ。もっともっと選手たちが主体的に発言し、提案し、投げかけ、我々がそれらを承認するという形を取っていきたいですし、そのようなチームにしていきたい。それが私の目標であり、強い願いでもありますね。

 ◆神川明彦(かみかわ・あきひこ) 1966年7月9日神奈川県生まれ。鎌倉高校、明治大学卒。1994年から2003年まで明治大学サッカー部のコーチを務め、2004年から同チームの指揮を執っている。2007年、2010年に関東大学サッカーリーグを制覇し、2009年には全日本サッカー選手権大会でも優勝。2015年に開催されるユニバーシアード競技大会光州(韓国)大会に出場するユニバーシアード日本代表監督に就任した。

14日インカレ開幕!学連幹事に聞く 前編

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選手たちがピッチ上で気持ちよくプレーすることができるよう、また、大会、試合をスムーズに進行、運営するべく様々な業務に携わっている学生幹事たち。大学サッカー発展のため、日々努力している彼らもまた、選手同様に、それぞれの思いを持って、学生幹事となった。全日本大学サッカー選手権(以下インカレ)開幕を控え多忙を極める中、全日本大学サッカー連盟、関東大学サッカー連盟の幹事長を務める寺本周平さん(拓殖大)、副幹事長の染谷茜さん(東洋大)、登録部の大高由衣さん(青山学院大)の3人が、インカレへの思い、そして学生幹事を務めた4年間を振り返ってくれた。【取材・構成 石井宏美】

学連幹事を務める左から寺本周平さん(拓殖大)、染谷茜さん(東洋大)、大高由衣さん(青山学院大)

学連幹事を務める左から寺本周平さん(拓殖大)、染谷茜さん(東洋大)、大高由衣さん(青山学院大)

――今月14日からインカレが開催されますが、具体的にどのような取り組みを行われているのでしょうか?
大高 決勝当日、国立競技場に3万人動員する「3万人プロジェクト」を行っておりますが、今大会は国立競技場改修前最後の決戦ということで、決勝当日のイベントや大学生の輪でたくさんの人を集客しようという取り組みをし、昨年以上の動員を目指しています。

――そういった目標を掲げる中で、実際に3万人を動員する大変さ、難しさを感じることもあると思います。
大高 目標は大きくということで、「3万人を目指そう」ということになったのですが、まず、大体これくらの人数に声をかければ、これくらいは集まるだろうという計算をしていても、実際はその半分ほどしか集まらないのが現状です。本当に3万人動員を目指すのであれば、その倍となる6万人程度の方々に声をかけなければ、実際に足を運んでいただくこと難しいなと痛感しましたね。また、今年はプロジェクト3年目ということで、1,2年目の反省点をいかしながら、多方面でのプロモーション活動に力をいれています。

関東大学サッカー連盟副幹事長の染谷茜さん(東洋大)

関東大学サッカー連盟副幹事長の染谷茜さん(東洋大)

――すでにホームページやSNSを利用し、様々なプロモーションを行っていますが、詳しく教えてください。
大高 まず、Facebookでは質問コーナーを設けているのですが、これは今年から行っている新しい取り組みの1つでもあります。
寺本 また、活動の場を広げ、J1リーグの東京や川崎Fのホームゲームの際に会場でインカレのチラシを配布させていただきました。
大高 さらに、高校サッカー選手権大会、千葉県、東京都、神奈川県大会決勝の会場では、インカレのチラシとサポーターズクラブの会報を配布したのですが、これも、実は今年が初の試みでした。

――年末は様々なスポーツイベントが集中していますが、そのような状況の中で、どんな部分をアピールしていきたいと考えていますか?
寺本 例えば、年末から開催される高校サッカー選手権と大学サッカーだと、高校サッカーの方が知名度が高いことは、僕たちも理解しています。そういった面で、観客動員で最も大事なるのが、各大学サッカー部の部員、スタッフの紹介などが大切になってきます。そこで、私たち学生幹事に加え、各大学に担当者を設け、ミーティングを開催しました。大学サッカーは、何もせずに観客が集まるという状況ではないので、動員部分を軸に考えながら、プラスαの要素として、告知チラシを配布したり、Facebookでプロモーションを行っているのが現状です。

――動員の難しさを感じながらも、リーグ戦含め、学生主体で運営することで、自分たちが作りあげているという手ごたえや、楽しさも感じられるのでは。
寺本 大学サッカーは、学生主体で運営していますが、まずそれが高校サッカーとのお大きな違いです。なかには、学生幹事を担当しながら、サッカー部の部員として頑張っている者もいますが、そういったところで、各々が責任感を持って臨んでいるのは(高校との)大きな差。運営している側の人間ですので、常に中立の立場を保たなければなりませんが、そういった場面で、円滑に運営が進み、なおかつ多くの方が足を運んでくださったときには、達成感を感じることもあります。

全日本大学サッカー連盟、関東大学サッカー連盟の幹事長を務める寺本周平さん(拓殖大)

全日本大学サッカー連盟、関東大学サッカー連盟の幹事長を務める寺本周平さん(拓殖大)

――インカレに向け、日々多忙を極めていると思いますが、そもそも、みなさんが学連の仕事を始めようと思ったきっかけは?
寺本 最初はサッカー部員として入部し、1年間プレーヤーとして練習や試合に出場していました。しかし、その中で、自分のプレーヤーとしての技術不足を痛感し、一度、部活自体を辞めようと考えました。しかし、一方では、これまで続けてきたのに、ここでやめてしまったらもったいないという気持ちも。いろいろ悩んでいる時期に先輩を通じ、大学サッカー連盟の存在を知り、学生幹事になりました。最初の頃は、何をしていいのか全く分からず、ただ事務所に来て少し仕事をして帰る…その繰り返しで、気持ちも中途半端な感じでしたね。しかし、ある時、「どうせやるのであれば、しっかりとやろう」と心を入れ替え、学連の仕事を向きあう中で次第に幹事長をやりたいという気持ちが芽生えたのです。

――幹事長をやりたいと思ったのは?
寺本 まず、学生幹事の仕事を頑張ろうと思ったのは、ある時、プレーヤーとして頑張っていた先輩と会話をする中で、先輩の真摯に取り組む姿を見て、自分は果たして同じような姿勢で臨んでいたかということに疑問を抱いたからです。また、幹事長になったのは、自分たちの代で決めなければならない状況になった際に、自分が成長するためのチャンスだなと思い、最初はためらいましたが、就任することとなりました。

――副幹事長を務める染谷さんは?
染谷 私はまず、将来的にサッカー関係の仕事に就きたいという気持ちが強かったんです。高校時代はマネージャーを務め、その時に大学サッカーを見る機会があったのですが、学生が運営しているということで興味を持ち、大学進学の際も、関東24大学の中から選択することを考え、東洋大に入学しました。1年生の後期から(学連に)入り、現在に至っています。大学でもマネージャーを務めていたので、両立も厳しく、何度も辞めたいと考えたこともありましたが、‟チームを支えたい”という気持ちも強く、また、学生幹事を辞める選択もなく、4年間両立させてきました。

――副幹事長になったのは?
染谷 4年生になった時に、幹事長の推薦で副幹事長を務めることになったのですが、3年次とは異なり、上に立って初めて見えてくる問題や、つらいことも経験しましたが、「大学サッカーをもっとよくしたい」という思いもあり、続けられていますね。14日から始まるインカレは集大成の大会でもあるので、力を入れて取り組みたいという気持ちがとても強いです。(後編に続く)

第62回全日本大学サッカー選手権大会

【日程】
1回戦 12月14日(土)、15日(日)
味の素スタジアム西競技場
厚木市萩野運動公園陸上競技場
Shonan BMW スタジアム平塚

2回戦 12月18日(水)
味の素フィールド西が丘
江戸川区陸上競技場
江東区夢の島競技場
Shonan BMWスタジアム平塚

準々決勝 12月20日(金)
相模原麻溝公園競技場
Shonan BMWスタジアム平塚

準決勝 12月22日(日)
味の素フィールド西が丘

決勝 12月25日(水)
15:00キックオフ
国立競技場

【入場料】
一般 1,000円(800円)
高校生以下無料
※()内は前売り料金

【出場校】
札幌大、仙台大、専修大、早稲田大、明治大、国士舘大、筑波大、北陸大、東海学園大、中京大、愛知学院大、大阪体育大、阪南大、関西学院大、関西大、広島修道大、高知大、鹿屋体育大、宮崎産業経済大、福岡大(以上、各地域リーグ上位チーム)、流通経済大(総理大臣杯優勝チーム)、IPU・環太平洋大(プレーオフ勝利チーム)、新潟経営大(プレーオフ勝利チーム)

【決勝当日イベント】
●エスコートキッズ、フラッグベアラー
●「I PLAY FOR…」写真展
●スペシャルライブ 歌手:YU-A
●Jリーグ内定者イベント
●東日本大震災支援ブース

【全日本大学サッカー連盟ホームページ】
http://www.in-colle.com/

I PLAY FOR…企画

「I PLAY FOR…」は、インカレのプロモーションの一貫として、5、6年前から始まった企画。5年、10年先も、その思いがつながり、続いていってもらいたい企画です(大高さん)

「I PLAY FOR…」は、インカレのプロモーションの一貫として、5、6年前から始まった企画。5年、10年先も、その思いがつながり、続いていってもらいたい企画です(大高さん)

※写真は昨年度の「I PLAY FOR PHOTO BOOK」

14日インカレ開幕!学連幹事に聞く 後編

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 選手たちがピッチ上で気持ちよくプレーすることができるよう、また、大会、試合をスムーズに進行、運営するべく様々な業務に携わっている学生幹事たち。大学サッカー発展のため、日々努力している彼らもまた、選手同様に、それぞれの思いを持って、学生幹事となった。全日本大学サッカー選手権(以下インカレ)開幕を控え多忙を極める中、全日本大学サッカー連盟、関東大学サッカー連盟の幹事長を務める寺本周平さん(拓殖大)、副幹事長の染谷茜さん(東洋大)、登録部の大高由衣さん(青山学院大)の3人が、インカレへの思い、そして学生幹事を務めた4年間を振り返ってくれた。【取材・構成 石井宏美】

学連幹事を務める左から寺本周平さん(拓殖大)、染谷茜さん(東洋大)、大高由衣さん(青山学院大)

学連幹事を務める左から寺本周平さん(拓殖大)、染谷茜さん(東洋大)、大高由衣さん(青山学院大)

 ――大学4年間、学連の仕事で多くの時間を費やされたと思います。普通の大学生がうらやましいと感じたことはありませんでしたか?
 染谷 何よりも、サッカーに関わりたい意思が強かったですし、他の大学生には味わうことができない貴重な経験をさせていただいたことが、私の支えになりました。また、学連で何かつらいことがあった時は、所属チームの仲間が気にかけてくれたことも、大きかったですね。

 ――大高さんはいかがですか?
 大高 私ももともとサッカーが大好きで、サッカーが強い大学への進学を考えていました。最初はマネージャーになりたいと思っていたのですが、先輩から学連の存在を教えていただき、見学に行ったところ、自分も24大学から集まった、様々が学年の方々とともに作り上げていきたいという気持ちになったんです。また、ここでなら青学のサッカー部を支えられるという面も魅力で、ここで頑張ろうと思えましたね。

関東大学サッカー連盟登録部の大高由衣さん(青山学院大)

関東大学サッカー連盟登録部の大高由衣さん(青山学院大)

 ――具体的な業務内容を教えてください。
 寺本 私たちは、関東と全日本を兼ねており、関東の場合は関東リーグ、アミノバイタルカップ、その他オープニングフェスティバルなどを、全日本に関しては、インカレ、総理大臣杯、デンソーカップ、日韓戦を運営します。さらに細かく言いますと、会場の確保だったり、プログラム作成、その他、運営の準備など、多種多様な業務を担当しています。僕自身は3年次まで競技部会に所属していたので、会場の打ち合わせや、会場で使用する物品の準備など、運営に近い業務を担当していました。幹事長になってからは、広い視野で部会すべてを見なければならない分、難しさも感じますね。

 ――幹事長としてのプレッシャーは?
 寺本 自分のなかではあまり重く考えず、関東リーグ前半戦が終わるまでは、なんとなく進んできてしまったというのが、正直なところです。しかし、そこで一度、染谷、大高を含め、4年生がしっかりと後輩たちに伝えるべきものは伝えなくてはいけないということを話し合い、それ以降は、スイッチを切り替え、取り組むようになったと思います。

 ――そんな幹事長・寺本さんを支えるのが染谷さんです。
 染谷 彼には相当なプレッシャーをかけていたと思うのですが(笑)、私自身は、そんなにプレッシャーに感じることはありませんでした。(寺本さんは)あまりはっきり言うタイプではなく、私の方がはきはき言うタイプかもしれませんね。ちょうどバランスがとれているのかもしれません。私自身は、副幹事長というよりも、広報業務の方が多く、今もインカレのプログラムの製作作業に日々追われています(笑)。多忙な部会だなとは思いますが、お客様に関わる仕事に興味を持っていたので、やりがいは大きいですね。

 ――学連の仕事に携わったことで、自分自身が変化したと感じることは?
 寺本 これまで僕は、サッカーでキャプテンや副キャプテン、またはクラスの学級委員長など、グループをまとめる役職にはまったく就いたことがありませんでした。むしろ避けて通ってきたほどです。しかし、幹事長に週にする際、今までの自分であれば避けていたと思いますが、これから社会に出ていく上で、団体の中心やトップを経験するのは、マイナスではないと考えました。実際にリーダシップに長けているとは思いませんが、ないからこそ、持たなければ、持とうという気持ちにも。
 染谷 下の学年の時は、同学年でさえも、そこまで強くチームだと意識することはなかったのですが、学連という1つの組織で、仲間や1つのチームということを意識するようになったのは、変化かなと思いますね。また基本的なマナーが身に付いたこと、さらには、24校以上の大学の方とかかわることで、様々な考え方を知り、視野が広がったと思います。
 大高 本当にギリギリの状態まで追いつめられたこともありましたが、どうしても辞めることだけはできなかった。そういう意味では我慢強くなったかもしれません。(学生幹事としての)最後の日が見えてくるにつれ、様々なことが思い出されますが、本当に多くの方とお会いしてきたなと、今、あらためて実感しています。おそらく、総勢500名ほどになると思いますが、500人分の影響をいただいたと感じますし、逆に私も(影響を)与えられていたらいいなと思いますね。

 ――では、最後になりますが、学連スタッフがみる、大学サッカーの魅力を教えてください。
 染谷 まず、学生が運営していることは誇りに感じていい部分だと思いますし、たとえば、選手がプロを目指せないと気づいた後も、真剣にサッカーに取り組む部員が多いのは大きな魅力だと思います。就活や学業と両立しながら、プロにならないけれど、何かを犠牲にして、他の大学生とは違って、サッカーに多くの時間を割いていることは、大学サッカーならではの魅力ですよね。

 ――みなさんも、両立は大変だったのではないですか?
 染谷 1、2年生の時は、授業がみっちり入っていたので、学業とマネージャー業、そして学連と3つを抱えていたので大変でした。本当に睡眠時間を削り、家に帰ったら寝るというような生活でしたね。でも、チームがあったからこそ、私もここまで続けられたという部分が大きいので、チームのみんなには本当に感謝しています。
 大高 就職活動時も毎日、学連の事務所に来て、仕事をしなければならず、ここから直接面接に行き、また戻ってきて仕事をし、電話がかかってくるとまた面接に行くという日々が続いていました。就活は精神的に大変でメンタル的に疲労していた時期もありましたが、そこでもし就活しかなかったら、途中で投げ出していたかもしれません。そういう日々の中でも、事務所に来ればたくさんの仲間がいて、週末には試合でチームの選手と会って……それが自分を支えていましたね。

第62回全日本大学サッカー選手権大会

【日程】
1回戦 12月14日(土)、15日(日)
味の素スタジアム西競技場
厚木市萩野運動公園陸上競技場
Shonan BMW スタジアム平塚

2回戦 12月18日(水)
味の素フィールド西が丘
江戸川区陸上競技場
江東区夢の島競技場
Shonan BMWスタジアム平塚

準々決勝 12月20日(金)
相模原麻溝公園競技場
Shonan BMWスタジアム平塚

準決勝 12月22日(日)
味の素フィールド西が丘

決勝 12月25日(水)
15:00キックオフ
国立競技場

【入場料】
一般 1,000円(800円)
高校生以下無料
※()内は前売り料金

【出場校】
札幌大、仙台大、専修大、早稲田大、明治大、国士舘大、筑波大、北陸大、東海学園大、中京大、愛知学院大、大阪体育大、阪南大、関西学院大、関西大、広島修道大、高知大、鹿屋体育大、宮崎産業経済大、福岡大(以上、各地域リーグ上位チーム)、流通経済大(総理大臣杯優勝チーム)、IPU・環太平洋大(プレーオフ勝利チーム)、新潟経営大(プレーオフ勝利チーム)

【決勝当日イベント】
●エスコートキッズ、フラッグベアラー
●「I PLAY FOR…」写真展
●スペシャルライブ 歌手:YU-A
●Jリーグ内定者イベント
●東日本大震災支援ブース

【全日本大学サッカー連盟ホームページ】
http://www.in-colle.com/

I PLAY FOR…企画

「I PLAY FOR…」は、インカレのプロモーションの一貫として、5、6年前から始まった企画。5年、10年先も、その思いがつながり、続いていってもらいたい企画です(大高さん)

「I PLAY FOR…」は、インカレのプロモーションの一貫として、5、6年前から始まった企画。5年、10年先も、その思いがつながり、続いていってもらいたい企画です(大高さん)


※写真は昨年度の「I PLAY FOR PHOTO BOOK」

中田航平/早大・MF 前編

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父のアドバイスでやるべきことが明確に

先週末、14日から始まった第62回全日本大学サッカー選手権大会(以下、インカレ)。18日に行われる2回戦から登場する早大をけん引するのが、MF中田航平(22)だ。高校、そして大学とケガに悩まされながらも乗り越え、各世代で“主将”を務め、チームを引っ張ってきた。4年間の集大成となるインカレでは、昨年に続く優勝が期待されるが、前回覇者としての気負いはない。「とにかく勝ちたい」と、貪欲に勝利を目指すだけだ。【取材・構成 石井宏美】

早大主将を務めるMF中田航平

早大主将を務めるMF中田航平

――中田選手がサッカーを始めたのは?
中田 3、4歳の頃だったと思いますが、2つ上に兄がサッカーをしていたこと、また、父が当時、高校の教員でサッカー部の監督を務めていたことも影響して、自然とやり始めるようになりました。幼稚園の頃は神奈川県横須賀市にある佐野ベアーズで、その後は横浜F・マリノスのスクールに入ってプレーしていました。小学生になると、また別のチームでプレーしていたんですが、3年生になった時にF・マリノスのセレクションを受験。結果は残念ながら落ちてしまったのですが、兄も下部組織でプレーしていたこともあり、どうしても入りたい気持ちが強く、また、同じスクールでプレーしていたメンバーがみんな合格したこともあり、悔しくて、次の年にもう一度セレクションを受けることにしたんです。

――その後、見事合格し、高校卒業まで横浜に所属しますが、サッカーと真剣に向き合うようにったのは?
中田 実は、中学2年までずっとディフェンスだったのですが、自分はそこまで能力もないし、身長も大きくなく、プレーしていてもあまり楽しいと感じられなかったんです。ずっと兄がボランチでプレーする姿を見て、面白そうだなと感じていたのですが、その気持ちをコーチにも伝え、ボランチでプレーするように。自分がゲームをコントロールするとか、そういうことを意識するようになってから、より真剣にサッカーと向き合うようになったような気がします。

――お兄さんの影響がかなり色濃く反映していますね。
中田 気が付けば、ずっと兄と同じ道をたどってきていますね(笑)。そういった意味では、兄と一緒にサッカーをすることは、ほとんどありませんでしたが、特別意識していないとはいえ、多少なりとも影響はしているのかなとは感じています。

――ユース時代にはすでにプロになるという明確な目標はありましたか?
中田 自分の中では高卒でプロになるという感覚はほとんどありませんでした。もちろん、トップチームが身近で練習していたので、全く意識しないわけでもなかったのですし、週に1度、ユースの数名がトップチームの若手選手と一緒にトレーニングする機会があり、そこにも参加していたので全く考えなかったわけではないのですが、それ以上に、大学は何としてでも行こうという意識が強かったんです。コーチにも高校3年のはじめには「大学に行く」と明言していたくらいです。

――同年代にはそうそうたるメンバーが揃っていましたが、彼らの存在は刺激になりました?
中田 1つ上でいえば(斎藤)学くんだったり、(端戸)仁くん、佐藤優平くんなど、本当にうまい選手はたくさんいたので、すごく刺激的ではありました。ただ。僕は1,2年の頃はケガが多く、そういう選手たちから刺激を受けるよちも、ケガをしたインパクトの方が強すぎて、それ以外の記憶は薄いというのが正直なところなんです。むしろ、高校3年生になった時のほうが、1つ年下には小野裕二(スタンダール・リエージュ/ベルギー)、同年代にも天野純(順大→14年横浜加入内定)らうまい選手がいて、刺激になりましたね。

――大学に入るまでに転機があったとしたら?
中田 中学2年の12月、新チームで招待大会に出場したことがあったのですが、その時、僕はサブ組で、途中から試合に出てもまったく良いパフォーマンスが出せず、キャプテンという立場でありながら、プレーが伴わず、くじけそうになったことがあったのです。その試合を父が見に来てくれていたのですが、「どうしたらいい?」と話しをしたところ、いろいろとアドバイスをくれたのですが、そこで自分がやらなければならないことが明確になったんです。それによって、自分のサッカーでのスタイルが確立されたかなと感じるくらい、大きな出来事でしたね。

指導者の存在が大きかったと話した早大MF中田

指導者の存在が大きかったと話した早大MF中田

――指導者の言葉で印象に残っているのは?
中田 ユース時代の監督である松橋力蔵さんは、これまで自分が指導を受けてきた中で、最も“サッカーを教わっているな”と感じた指導者です。また、サッカー指導者としてスペシャリストでありながら、人間性の部分を強く唱えられていて、そういった部分は、今も自分の心の中に深く残っていますし、松橋さんを始め、自分は良い指導者に出会うことができているなと想いますね。

――ユース時代もキャプテンを務めていましたが、高校時代までの経験が大学で生かされたことは?
中田 ユースの時はキャプテンといっても、やはり指導者の存在が大きかったと思います。とはいえ、中3で副キャプテン、高3でキャプテン、学校でも中学時代に生徒会長を務めさせていただくなど、高校時代までに何度も人前に立って話しをした、様々な経験をしたことは、今に生きていると思います。何事も経験は大事ですよね。

――早大にはスポーツ推薦を利用して入ったということですが、早大に入学したいと思ったのは?
中田 学力も伴い、なおかつサッカーのレベルもトップの大学に進学したいと考えた時、それが可能だと思い浮かんだのが早大と筑波大でした。もともと、大学に入学する前は、教師にもなりたいと考えていたので、そういった意味では、早稲田のスポーツ科学部や筑波大の体育専門学群に行かなければ(教員には)なれないと理解していたので、自然としぼられた感じはありますね。

――大学に入る前にすでに自分がやりたいことが明確になっていた?
中田 高校3年の頃から、自分の気持ちの中では“プロになるんだろうな”とは思っていたんですが、残念ながら実際にはそうはならなりませんでした。もちろん、プロになることだけを考えてはいたのですが、大学では本当にケガが多くて……。大学1年の9月くらいまでは、通してプレーしたり、ベンチに入ることができていたのは僕くらいでしたし、このままいけばプロになれるかな……と期待を抱いていたんですけどね。人生はそんなにうまくいきませんでした。結局、大学1年の9月以降はケガと復帰を繰り返し、3年の6月頃までの1年8、9カ月間、継続してプレーすることはほとんどできませんでしたね。

もう治らないのではないかと考えることもあったと話した中田

もう治らないのではないかと考えることもあったと話した中田

――ケガと復帰を繰り返し、ネガティブになることはありませんでしたか?
中田 大学に入ってからは、本当に“サッカーを辞めたいな”と思うことが多かったですね。最初は打撲で離脱し、復帰したと思ったら、今度はシンスプリントに。ケガと復帰を5、6回繰り返したと思うのですが、さすがに、この時ばかりは、離脱した際に、もう(ケガは)治らないのではないかと考えることもありました。サッカーを辞めたいとか、ここにいても意味がないと思うことは、本当に何度もありましたね。

――そんな辛い時期を支えていたものは?
中田 なんでしょうね……。過去の栄光にすがっていたというか、それでも復帰したら、いつかプロになれるのではないかという気持ちがありましたし、学年でリーダー的な存在を務めていたこともあって、何かしら自分の存在意義があるのではと考え、最終的に辞めるという決断には至りませんでした。なによりも、ケガと復帰を繰り返しながらも、復帰した短い間にサッカーをするとすごく楽しかったですからね。日が経つにつれ、ネガティブに捉えるよりも、“いつか継続してプレーできるようになれればいい”と、自分のケガとしっかり向き合うようになったと思います。

――苦しい経験ではありましたが、そのケガから学んだこともあったのでないでしょうか。
中田 僕は自分勝手で、あまり周りのことを考えないような人間だったので、こういう経験をするまでは、本当に自分のことしか頭にありませんでした。ですから、あまり(周りが)見えないというか、自分のことだけを考えていたと思いますが、そういった意味で、自分の体をよく知ろう、理解しようということをよく考えるようになったのですが、自分の体と向き合うようになったのは、今となっては大きかったのかもしれません。(後編に続く)

◆中田航平(なかた・こうへい)1991年(平3)4月21日生まれ。神奈川県横須賀市出身。兄の影響でサッカーを始める。幼稚園の頃は佐野ベアーズに入団後、I・Oキッカーズを経て横浜のスクールに。小学4年時に横浜プライマリー追浜入り。その後、同チームのジュニアユース、ユースでプレー。高円宮杯第20回全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会優勝。2010年早稲田大学スポーツ科学部入学。父はJFAアカデミー福島U-18の指揮を執る中田康人氏。家族構成は父、母、兄。172センチ、63キロ。血液型O

中田航平/早大・MF 後編

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どれだけ上に行けるかチャレンジしたい

 先週末、14日から始まった第62回全日本大学サッカー選手権大会(以下、インカレ)。18日に行われる2回戦から登場する早大をけん引するのが、MF中田航平(22)だ。高校、そして大学とケガに悩まされながらも乗り越え、各世代で“主将”を務め、チームを引っ張ってきた。4年間の集大成となるインカレでは、昨年に続く優勝が期待されるが、前回覇者としての気負いはない。「とにかく勝ちたい」と、貪欲に勝利を目指すだけだ。【取材・構成 石井宏美】

早大主将としてチームをけん引するMF中田航平

早大主将としてチームをけん引するMF中田航平

――早大ア式蹴球部だったからこそ得られたものとは?
中田 早稲田大ア式蹴球部は長い歴史もそうですが、監督の早大に対する熱い思いがあって、それを身近で感じることで、“すごい歴史なのだな”とか、いろいろなものを背負って戦わなければならないんだと痛感し、さらには、今の自分では駄目だという危機感も抱くように。ユースまでは自分だけで戦っていましたが、大学生になると自分だけのためだけではなく、部員のためであったり、支えてくれる人のためにと考えられるようになったのは、大学サッカーを経験したからこそ変化したところですね。また、大学サッカーは運営の部分から学生が関わっていますが、サッカーそのものだけではなく、様々な面で良い人材を育てる環境があるのは素晴らしいことだと思いますし、僕は本当に大学に来て良かったとしみじみ感じています。

――学業とサッカーを両立させることは大変でしたか?
中田 そんなに大変だとは感じませんでしたが、卒論でやっと学生らしいことをしているという感覚も少し感じています(笑)。

――テーマは?
中田 「大学サッカーにおけるリーダー像」です。

オンオフをしっかりと区別できるのが理想と話した中田

オンオフをしっかりと区別できるのが理想と話した中田

――自らも経験し、卒論のテーマにも選んだ“リーダー”ですが、その理想像は見えてきましたか?
中田 自分の中では、あまりきっちりしすぎているリーダーは好きではないというか、“やる時はやる、ふざける時はふざける”というように、オンオフをしっかりと区別できるのが、僕が理想とするところですね。できるだけ様々な人と話し、あまりグループで群れないようにするということも考えています。また、(相手に)言う、言わないは別として、「この選手はこういうことを考えているのかな?」など、常にいろいろなことに気づこうと心がけたり、想像したりしています。

――リーダーの経験が、サッカー以外の部分で生かされたことはありましたか?
中田 やはりキャプテンという役職柄、人の前に出て話す機会が多いのですが、そういった意味では、直近で言えば、就職活動の際に活かされたのかな?と思います。また、そういった部分は、サッカーを続ける、続けないに関わらず、どのようなフィールドであっても、今後社会に出ていく上で重要な能力だと感じています。

――プロを目指す中で、他の道を考えなければならないと考え始めたのは?
中田 大学3年までは、ケガのため試合に出ていませんでしたが、“4年生で試合に出られればプロになれるだろう”と軽く考えていたんです。いつも先輩方には「3年生の後期で試合に出ていなかった無理だ」と言われていましたが、僕は「いや、なんとかなるだろう」という程度で。しかし、シーズンが始動すると、「こんなにも自分は下手だったのか」と思うほどパフォーマンスが低く、これでは到底プロは無理だと考え始めるようになりました。もともと、部活は部活で頑張って、就職浪人して、来年、就活をやろうと考えていたのですが、いろいろな縁もあり、就活を始めることになりました。

――その就職活動は順調に?
中田 就活を始めたのは、1月くらいからで、通常の就活よりもかなり遅かったですね。しかも、2,3月は練習や合宿とも重なったので大変でした。その時期は、サッカーのパフォーマンスを上げることができず、同期や後輩には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。しかし、もし、これで就活さえも実らなければさすがにまずいと思い、必死に頑張りました。(就職活動が)終わった瞬間は、自分の中ですべてがすっきりし、これでもうサッカーを頑張るしかないと思い、サッカーに100%向かうことができるようになりましたね。

――大学生活を100%やり切った! という感覚、手応えはありますか?
田中 ケガをしたことも、パフォーマンスがあげられなかったことも自分の弱さ。だからこそ満足はしていないですし、あげればいくつも後悔はありますが、最近は、これが自分の実力なんだなとも痛感しています。

――ちなみに、大学4年間でライバル的な存在はいましたか?
中田 サッカーの面では、挙げればきりがないくらいいろいろな選手がいますが、サッカーはもちろん、私生活の面でも、ライバルというよりいつも“すごいな”と感じていたのは、同じ早大の池西希です。また、リーダーという面では、去年の畑尾(大翔)くんなどは、まさに“リーダー”という感じでしたので、そういった部分は今年、僕も意識していましたね。自分のパフフォーマンスがまったく上がらなかったので、それ以前の問題でもあったのですが……。もっとリーダーとしての能力を発揮しなければいけなかったと痛感する部分は多々あります。また、それが今後の自分の課題でもあると思います。

自分の中には少なからず“リーダー気質”のようなものがあると話した中田

自分の中には少なからず“リーダー気質”のようなものがあると話した中田

――大学サッカーでの経験を、この先の人生に、次のステップにどのように生かしていきたいですか?
中田 今後、サッカーに関わる、関わらないは、あまり自分の中で強い執着はありません。ただ、自分の中には少なからず“リーダー気質”のようなものがあると思うのですが、どんなことに挑戦しても、それがどんなフィールドであろうとも、どれだけ周りの人の目に魅力的に映るか、どれだけ自分が上に行けるかということをテーマにチャレンジしていきたいですね。

――では、最後に、大学最後の大会となる、インカレに向けての思いを聞かせてください。
中田 もちろん、優勝したい気持ちは強いです。個人的なことでいえば、リーグ戦終了後、自分がやるべきことを整理し、そして意識して、練習に取り組んできました。徐々にコンディションも上がり、こういったプレーができれば、勝ち上がれるんじゃないかという手応えも感じています。そういった意味ではすごく楽しみですねまた、前回覇者として臨むわけですが、あれからもう1年も経ち選手も入れ替わっていますからね。去年は去年のこと。そういう意味ではプレッシャーはありません、とにかく「勝ちたい」その思いだけで臨みたいと思います。

◆中田航平(なかた・こうへい)1991年(平3)4月21日生まれ。神奈川県横須賀市出身。兄の影響でサッカーを始める。幼稚園の頃は佐野ベアーズに入団後、I・Oキッカーズを経て、横浜のスクールに。小学4年時に横浜プライマリー追浜入り。その後、同チームのジュニアユース、ユースでプレー。高円宮杯第20回全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会優勝。2010年早稲田大学スポーツ科学部入学。父はJFAアカデミー福島U-18の指揮を執る中田康人氏。家族構成は父、母、兄。172センチ、63キロ。血液型O


専大・長沢「味わえない経験」ケルン入団会見

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 ドイツ・ブンデスリーガ2部のケルンへの入団が決まった専大MF長沢和輝が、25日、東京・国立競技場で記者会見を行った。

専大源平貴久監督(左)とケルン入団会見に臨んだMF長沢和輝

専大源平貴久監督(左)とケルン入団会見に臨んだMF長沢和輝

専大源平貴久監督
 「長沢和輝の進路についてですが、先日より報道されています通り、ブンデスリーガのFCケルンで1月より契約をし、活動することになります。進路の経緯といたしましては、かなり前からドイツの複数のクラブから興味を持たれておりまして、その中から今回、FCケルンさんが、長沢の将来性、また、2部から1部に上がるための戦力として獲得意思を表示してくれました。また、それに対し、長沢の方が意思表示を示したという感じで決まったという流れになります。私、個人としましては、(長沢)本人に将来A代表を目指して頑張っていってほしいというのが願いと希望です」

長沢和輝
 「最後の最後まで(決断を)引き延ばしてしまったのですが、来年1月からFCケルンに入団させてもらうことになりました。まったく日本とは違う環境ですが、早くその環境に慣れ、少しでも早く試合に絡んで勝利に貢献できるように頑張りたいです。将来の展望は、やはり海外に出ていくということで、世界のプレーヤーと対等に戦える選手になり、日本を代表できるよう頑張っていきたいと思います」

質疑応答にこたえる専大MF長沢和輝

質疑応答にこたえる専大MF長沢和輝

質疑応答
 ――ドイツ語の勉強はどのくらい進んでいますか? また、2年半の契約が終わった後も、欧州でのプレーを考えているのでしょうか?
 長沢 ドイツ語に関しては、まだ挨拶程度しかできないです(笑)。でも、向こうに行ってしっかりと学んできたいと思います。(ケルンとの)契約期間が終わった後についてですが、その時になってみないとわかりませんが、高いレベルでプレーできるように、その時に判断し、良い選択ができればと思います」。

 ――Jクラブという選択肢もあった中で、長沢選手にとって魅力的だったのは? また、ケルンの練習に参加して印象に残ったことを教えてください。
 長沢 印象に残ったのは、日本のチームと違い、(体が)大きくて強くて速い、ということ。そういう部分では、日本では全く味わえないような経験ができたと思います。また、ケルンへの入団は、自分自身、本当に悩みました。ただ、どちらを選択したとしても、それぞれ自分が成長できる環境だと思いますし、どちらを選択しても間違いではないと思っていました。単純に、サッカー選手として、チャレンジしてみたいなというふうな思いがあったので、このような決断に至りました。

 ――監督から見て、あらためて長沢選手とはどういう選手なのか教えてください。また、長沢選手は自身を客観的に見ていかがですか?
 源平監督 ブンデスリーガで活躍する日本人に共通するところですが、(長沢選手も)技術や俊敏性という面は非常に秀でていると思います。ポジションも攻撃的なMFというところで、ドイツ人にはない特長を持ち合わせている。ドイツのリーグでも、十分にやっていけると確信しています。細かい部分で言えば、ドリブルとシュート、個の力でゴールまで持っていけるというところ。また、大学レベルではありますが、大事なところで必ず得点が取れる選手なので、そういったところは他の選手にはない特長だと思います。また、専修大はごく最近まで本当に弱小チームでした。それを彼1人の力といっても過言ではないほどのレベルまで押し上げてくれた。その1つの要因としては、練習に取り組む態度、そして試合に臨む準備ですね。すべてにおいて、率先してできる日本人らしい部分は、海外に行っても評価されると思います。ドイツに行っても、非常に重要な役割を担える選手になれると確信しています。
 長沢 自分のプレーの特長は、ゴールに直結するプレーができるところだと思います。シュートやドリブル、パスで、そのプレーが最もゴールに直結するのか選択できるのが、自分の強みだと思います。ケルンの練習に参加し、(外国人選手の)体の大きさや強さ、速さという部分では、勝てない部分は多くあると感じましたが、俊敏性だったり、足元の技術、逆に入るプレーというところでは、十分通用する面はあると思います。

 ――ドイツで今プレーしている選手からのアドバイスは何かありましたか? 
 長沢 代表の選手とは関わりがないので、アドバイスやコメントはいただいていませんが、現在、ケルンのチームで専修大の先輩や、八千代高校時代の先輩もプレーしているのですが、先日に練習に参加した際に、実際に会ってアドバイスをいただき、いろいろな話を聞けたことは、自分の中でもすごく良い経験になりました。

 ――ケルンに関していえば、これまで槙野智章選手やチョン・テセ選手が在籍していましたが、なかなか結果を残すことができませんでした。自分がケルンで成功するために必要なものは何だと感じていますか? また、現在、ドイツでプレーしている選手たちのなかで参考にしている方がいれば教えてください。
 長沢 ケルンに在籍していた日本人選手は何人もいると思うのですが、彼らとは自分はポジションもプレースタイルも違う。トップ下の部分でのプレーの特長を出すことができればと思っています。練習参加で行った時にブンデスリーガの試合も何試合か見させてもらったのですが、やはり、みんな体が大きくて強い。その中で、自分のように身長が小さい選手、日本人の選手が生きていくには、清武(弘嗣)選手やドイツにいた頃の香川(真司)選手、ドイツ代表で言えばゲッツェ選手のようなプレースタイルが最も生きるでしょうし、参考にしようかなと考えています。

ケルン入り長沢「すぐにでも試合」ドイツへ出発

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ドイツへ出発した専大MF長沢和輝

仲間に見送られてドイツへ出発した専大MF長沢和輝(左から4人目)

 ドイツ・ブンデスリーガ2部、ケルンへ加入する専修大MF長沢和輝(22)が、トップチーム始動と同時に合流するため、4日、成田空港発の航空機でドイツへ出発した。

 この日、成田空港には中学時代に所属していた三井千葉サッカークラブを始め、八千代高、専修大サッカー部のチームメイトら多数が集まった。苦楽を共にした仲間たちからの激励に、「地元が千葉なので、(空港に)来やすかったんだと思いますが、ありがたいですね」と感謝。新天地での戦いを前に、気持ちをあらたにしていた。

 ケルンは昨季2部降格を味わったが、今季は前半戦を終えて首位に立っており、1年での1部復帰に向け、順調に勝ち点を積み重ねている。長沢も「早くチームメイトの名前や顔を一致させたい。そうすれば、コミュニケーションも取りやすいでしょうし、チームにもなじみやすいと思う」と意欲を見せた。

 プロ初シーズンとなる今季後半戦に向けては、「これまでとは環境がまったく違いますし、一度練習に参加した際も、完全に入りきれたわけではなかった。まだつかめていないというのが本音ですが、できる限り早くドイツの環境に慣れたい」と自覚する通り、まずは新しい環境への順応が最優先となる。しかし、「チームの勝利に貢献できるような選手になりたいし、できればすぐにでも試合に絡みたい」と、どん欲に挑む覚悟だ。

 なお、ケルンは6日からトレーニングを再開し、その後、1月21日~29日にトルコ・ベレクで冬季キャンプを実施。また、2月9日のSCパーダーボルン07戦で、後半戦の開幕を迎える。

碓井鉄平/駒大・MF 前編

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選手権優勝をポジティブに捉えられていなかった

 昨季、関東大学サッカーリーグ2部・2位となり、11年以来2季ぶりとなる1部昇格を決めた駒沢大学。主将として、チームをけん引したのがMF碓井鉄平(22)だ。山梨学院大学付高3年次に成し遂げた、全国高校サッカー選手権優勝という輝かしい実績。大学入学後、それが苦悩に感じた時期もあったが、2部降格という試練も、見事乗り越えてみせた。J2長崎への加入が決定したMFに話を聞いた。【取材・構成 石井宏美】

駒大主将として、チームをけん引したMF碓井鉄平

駒大主将として、チームをけん引したMF碓井鉄平

 ――碓井選手がサッカーを始めた年齢ときっかけは?
 碓井 父や兄貴がサッカーをしていた影響もあり、気がついた時には、自分もボールを蹴っていました。そういう意味では、ごく自然な流れでサッカーを始めていたと思います。その後、小学4年生までは、普通のサッカー少年団に所属し、5年生から東京ヴェルディのジュニアに入りました。少年団に所属している頃に、いろいろな方に「さらに上の環境でやってみたら?」と勧められ、セレクションを受けたところ合格しました。僕自身は、居心地も良かったですし、同じ小学校に通う友だちもいたので、少年団でそのままプレーすることも考えていたんですけどね。

 ――実際、ヴェルディジュニアでプレーするようになり、違いを感じることはありましたか?
 碓井 まず大きな違いといえば、隣でプロの選手たちが練習をしているということ。グラウンドも土ではなく、人工芝だったので、これはすごい環境だなと驚きましたね。また、選手個々のレベルもとても高いと感じました。

 ――中学時代はFC東京U-15むさしでプレーすることになったわけですが、その経緯は?
 碓井 ヴェルディのジュニア時代、ジュニアユースの練習や試合などを見て、レベルが高いなと感じていて、“実際に自分がそこに入ったら、一体どうなるんだろう?”と考えたことがありました。そんな時期に、ジュニアユースには上がれないことが分かって。それ以前も、スタッフとの面談の際にいろいろ相談をしたところ、ヴェルディのプレースタイルに自分が合っていないかも、と話をしたこともあったんです。そんな折に、FC東京U-15むさしの1期生を募集しているということで、もしかしたら、そちらの方がやりやすいのかもしれないと考え、セレクションを受けることになったんです。

 ――そして、見事に合格し、FC東京U-15むさしに加入。さらに、その後は山梨学院大学付高へ入学しました。
 碓井 まず、幼い頃から選手権に出場したいという純粋な思いから、高校サッカーでという気持ちが大前提としてありました。純粋に、自分もその舞台でプレーしたいな、と。実は、最初に市船(市立船橋)のセレクションを受験したのですが、そちらは落ちてしまって。また、(碓井選手の地元である)東京都は毎年どの高校が選手権に出場するか分からない。また、FC東京U-15むさし時代に、山梨学院と練習試合する機会があったのですが、その際に山梨学院のスタッフの方が、来てほしいと言ってくださっていたようで……。実際に1度練習に参加したところ、環境も良く、「面白いチームだな」と感じ、山梨学院大学付高への進学を決断しました。

山梨学院大付対青森山田 前半11分、決勝ゴールを決める山梨学院大付MF碓井鉄平

山梨学院大付対青森山田 前半11分、決勝ゴールを決める山梨学院大付MF碓井鉄平

 ――高校3年次には、全国高校サッカー選手権制覇を成し遂げました。
 碓井 当時は、純粋に“優勝して良かったな”と喜びましたし、もちろん嬉しかったのですが、大学入学後は“選手権優勝”というイメージがあまりにも強すぎて、その称号が少なからず邪魔になっている部分はありましたね。そういう面で振り返ると、良い面、そうではない面の両方を経験したと思います。

 ――ご自身の中では、“選手権優勝”は、もう過去のこと、と感じたこともあったかと思います。
 碓井 大学1、2年の頃にはもう(選手権で優勝したという感覚は)あまり頭の中になかったですね。優勝を経験したからこそ、自分の中で目標が高くなったことを考えれば、非常に良い経験だったとは思いますが、一方でプライドが高くなったというか……。大学に入って、チームが2部でプレーすることになった時には、正直なところ、「なんで、今、自分はこの場所にいるんだろう」と感じてしまうこともありました。それらは選手権優勝という出来事を経験したからこそ感じることであり、だからこそ早く忘れたいというか、“選手権優勝”をあまりポジティブには捉えられてはいませんでしたね。

 ――選手権優勝を経験し、どのように目標が変化したのですか?
 碓井 実は高校から大学へ進学する際、最初はどの大学に行こうか、とても迷っていたんです。ある程度、早い段階で、将来はサッカーの指導者になるため、体育の教員免許を取得し、サッカー部で指揮をとろうという考えを持っていました。しかし、横森さん(巧・山梨学院大学付高サッカー部総監督)と話しをした際に、「大学までサッカーをやって無理だったら、そこから考えればいいよ」というアドバイスをいただいて。そこでもう1度、「大学サッカーをやろうかな」という前向きな気持ちになれたのです。 そして、高校サッカー選手権で優勝を経験。あれだけの大舞台、多くの観客の前でプレーしたことで、「もう一度、このような大勢の観客の前でサッカーがしたいな」と、さらに思いが募るようになりましたね。

山梨学院大付対青森山田 応援席にあいさつに行く前に抱き合う山梨学院大付・横森巧監督とMF碓井鉄平

山梨学院大付対青森山田 応援席にあいさつに行く前に抱き合う山梨学院大付・横森巧監督とMF碓井鉄平

 ――ただ、先ほどの話の中にもありましたが、“選手権優勝”というイメージが、大学4年間ついて回り、苦しんだのもまた事実だと思います。
 碓井 大学サッカーの試合では、必ず野次られていましたからね(笑)。また、選手権当時のイメージが強いためか、僕自身は、大学に入ってかなりプレースタイルが変わったと感じているのですが、周りの方はいまだに当時のプレーのイメージが強いようで……。

 ――プレースタイルが変わったのは、チームとして戦う中で変わらざるをえなかったのでしょうか、それとも意識的に変えいったのでしょうか?
 碓井 自分自身、このままではダメだと感じていましたし、うちはフィジカル的な部分が大きく影響するチームで、しかも自分はその中で主将を務めるわけですから、まずは自分が率先して、プレーで見せていかないといけないという気持ちが強かったですね。だからこそ、自分自身でも意識的に変えましたし、同時にチーム戦術の中で変えざるをえなかったと思います。(後編に続く)

 ◆碓井鉄平(うすい・てっぺい)1991年11月3日東京都府中市生まれ。幼稚園の頃にサッカーを始める。小学4年生までサッカー少年団に所属し、5年生で東京ヴェルディジュニアに。中学時代はFC東京U-15むさしでプレー。山梨学院大学付属高校時代は、3年次に主将を務め、全国高校サッカー選手権大会で優勝を果たした。10年駒澤大学法学部入学。10年全日本大学選抜。今季は関東大学サッカーリーグ2部のベストイレブンと、4年間最多出場賞も受賞した。家族は父啓之さん、母しげこさん、兄晋平さん。174センチ、68キロ。血液型O

碓井鉄平/駒大・MF 後編

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変わるきっかけ 主将を務めたこの1年

 昨季、関東大学サッカーリーグ2部・2位となり、11年以来2季ぶりとなる1部昇格を決めた駒沢大学。主将として、チームをけん引したのがMF碓井鉄平(22)だ。山梨学院大学付高3年次に成し遂げた、全国高校サッカー選手権優勝という輝かしい実績。大学入学後、それが苦悩に感じた時期もあったが、2部降格という試練も、見事乗り越えてみせた。J2長崎への加入が決定したMFに話を聞いた。【取材・構成 石井宏美】

駒大主将として関東1部復帰に導いたMF碓井鉄平

駒大主将として関東1部復帰に導いたMF碓井鉄平

 ――そもそも、駒大への進学を決めたのは?
 碓井 高校時代に何度か練習試合で対戦していたのですが、いろいろな相手と対戦する中で、一番やりたくないなと感じた相手が駒澤大学でした。高校時代の監督には「駒澤大に行ったらどうだ」と勧められていましたが、最初は、自分のイメージとは少し異なるサッカーだと感じていたので、ずっと断っていたんです。しかし、進路を迷っている時期に、秋田(浩一)監督が足を運んでくださったんですが、そこでいろいろと話をさせていただいて。それまでは正直なところ、全く(駒澤大に)行くつもりはありませんでしたが、(駒大から)プロ入りしている選手も多いと知り、それが1つ決断の理由になりました。自分がイメージするサッカーとは少し異なっていましたが、そういうサッカーの中に自分が入ったら、逆に目立つのではないか、とも考えましたね。

 ――駒大の伝統的なサッカーに、自分が少しでも何か変化を加えてみよう、そんな気持ちも持っていた?
 碓井 駒澤大学のサッカーは、前に強い選手がいて、彼らを最大限に生かしたサッカーを展開します。もちろん、とても有効的ではありますが、それだけでは厳しい試合もある。そういった局面で、自分が1つアクセントになるというか、攻撃のバリエーションを増やすことができればいいなと考えていました。ただ、やはりサッカーは1人でやるスポーツではありませんからね、1~3年生までの間は、思うようにうまく機能しませんでした。

 ――碓井選手は1年次から試合に出場していました。当時、客観的に見ていて、“葛藤しているな”と感じたことがあったのですが、ご自身はそのあたりどのように感じていましたか?
 碓井 そうですね、ヘディングでしかボールに触れない試合もありましたからね(苦笑)。高校時代は自分の欲しいタイミングでボールが来ていましたし、自分が呼んだら来る、そういう中でプレーしていたのでやりやすかったけれど、大学では自分の欲しいタイミングで(ボールは)来ないですし、来るのは自分がボールを取る時とヘディングのセカンドボールのみ。そういった部分で、サッカーに対する考え方は徐々に変化していったと思います。例えば、最初は「なんで蹴ってしまうんだろう」とばかり考えていましたが、そういう局面でも、逆にそのセカンドボールに反応していけば、自分のところにボールがこぼれてくる、というように。そういう部分で考え方は少しずつ変わったと思います。

 ――大学時代に1番厳しいなと感じた時期は?
 碓井 2年生の頃はなかなか試合に勝てず、結局、年間で4勝しかできませんでした。それまでのサッカー人生の中で、こんなにも勝てないことはなかったし、基本的に自分たちが優位に立ってプレーする試合が多く、守備から入る試合はなかなかなかったので、非常に厳しかったです。勝っていても逆転されそうな雰囲気が漂っていて、しかも、そういう時に限って、本当に逆転されてしまう……。どれだけ守っても、チームとして負けたら意味がないとずっと考えていただけに、厳しかったですね。

 ――何のためにサッカーをやっているのだろうと悩んだ時期はありましたか?
 碓井 普通にありましたね。サッカーを辞めようとまでは考えませんでしたが、楽しくないなと感じることはありました。転機は4年生になって、主将になったこと。高校時代は、サッカー面はもちろん、私生活の面などにも口を出していましたが、大学では基本的にみんな自主的にやってくれる。主将としての役割は少なかったけれど、自分自身が変わるきっかけになったのが、主将を務めたこの1年でした。1~3年生まではあまり結果を残すことができず、1年次は総理大臣杯で優勝したとはいえ、自分はあまり貢献できていない。このままでは、普通に大学生活を終えてしまうなという危機感をいやというほど感じました。ただ、そこで自分自身が変わらなければと思ってからはプレースタイルも変わりましたし、最後だから結果を残したい、チームが勝つことに重点を置いてというように考えられるようになりましたね。

関東1部復帰果たした駒大イレブン。碓井は前列中央

関東1部復帰果たした駒大イレブン。碓井は前列中央

 ――2部のチームを1部に引き上げなければならないという責任やプレッシャーも感じていたのでは?
 碓井 僕は継続的に試合に出ていたこともあり、勝てない原因を(試合に)出ていない選手よりも強く感じる部分がありましたし、継続して試合に出場していたからこそ、責任を感じずにはいられませんでした。ですから、今年、1部昇格を決めて卒業できるのは、最低限の仕事はできたかなと胸をなでおろすような気持ちもあります。

 ――この4年間、厳しい時期も乗り越えられたのは、自分がどんな姿勢で挑み続けたからだと思いますか?
 碓井 まずは、自分の気持ちがブレなかったこと。高校で選手権優勝という1番上を見ている自分にとって、2部降格はどん底であり、悔しさでしかなかったでけれど、“このままじゃ終われない、終われない”という気持ちが、僕を支えてくれたかなと思います。

 ――大学サッカー4年間の生活の中で、碓井選手が学んだものは何でしょうか?
 碓井 大学に来るまでは、技術を中心にやってきましたが、サッカーをやる上で1番大切なのは、基礎となる、例えば……走るとか、頑張ること。実はそういう面が今までの自分には欠けていたものであり、そういったサッカー選手の土台となるようなものを、大学4年間で学ぶことができたのではないかと感じています。大学に入学してからうまくなる選手もいますし、逆に潰れてしまう選手もいる。そういう意味では、いろいろな可能性を秘めているのが大学サッカーであると思います。高校時代と比べると、自由な時間が多いこともあり、それぞれの時間の使い方によって、いかようにも成長もできれば、逆もありうる。そう考えると、すべては自分次第だと思いますね。

 ◆碓井鉄平(うすい・てっぺい)1991年11月3日東京都府中市生まれ。幼稚園の頃にサッカーを始める。小学4年生までサッカー少年団に所属し、5年生で東京ヴェルディジュニアに。中学時代はFC東京U-15むさしでプレー。山梨学院大学付属高校時代は、3年次に主将を務め、全国高校サッカー選手権大会で優勝を果たした。10年駒澤大学法学部入学。10年全日本大学選抜。今季は関東大学サッカーリーグ2部のベストイレブンと、4年間最多出場賞も受賞した。家族は父啓之さん、母しげこさん、兄晋平さん。174センチ、68キロ。血液型O

仲川輝人/専大・FW 前編

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川崎Fアカデミー中村フィジコとの出会い

 圧巻の攻撃力で昨季、関東リーグ3連覇を果たした専大。その攻撃の一角を担ったのが、15ゴールを挙げ、得点王に輝いたFW仲川輝人(3年=21)だ。相手選手も舌を巻くスピードや細かいタッチから繰り出されるドリブル、そして圧倒的な決定力でチームを勝利に導いた。昨季、専大を支えた長沢和輝、下田北斗の2人が抜け、どのような戦いを見せるか注目の今季。目指すは前人未到の4連覇と、リーグ、総理大臣杯、インカレの3冠達成だ。【取材・構成 石井宏美】

前人未到のリーグ4連覇と、3冠達成を目指す専大FW仲川輝人

前人未到のリーグ4連覇と、3冠達成を目指す専大FW仲川輝人

 ――仲川選手がサッカーを始めたのは?
 仲川 父親の影響でサッカーを始め、小学1年の頃には通っていた小学校のチームに入団しました。当時のことはあまりよく覚えていませんが、ボールを蹴ることが大好きだったという記憶は残っていますね。

 ――中学、高校時代と、川崎フロンターレのアカデミーでプレーしていました。すでに、その頃からプロ選手になるという夢は持っていましたか?
 仲川 実は小学4年生からスクールに入っていたので、その期間も含めると、9年間ほど川崎Fにはお世話になっているんです。ただ、スクールでプレーしていた頃は、まだプロになりたいという願望はありませんでしたね。しかも、当時は人見知りだったので、練習に行っても誰ともしゃべらないことも多々あって。コーチに言われたことを黙々と練習するような、おとなしい子どもでした。小学6年次に、スペシャルクラス(当時)に選出され、また新しい環境でプレーすることになったのですが、その際も、異なる環境に行くのがいやで、よく親に「行きたくない」と反抗していました(笑)。ただ、その頃から、少しずつ、将来的にサッカーを職業にするとか、サッカー選手になるということを考え始めたような気がします。

 ――川崎Fに対してはどんなイメージを持っていましたか?
 仲川 親がテレビでよく試合を見ていた影響もあり、また、地元のチームでもあったので愛着はあったと思います。でも、まさか自分がそのチームに入り、U-18までプレーするとは想像もしていませんでしたけどね。

川崎Fアカデミーの中村圭介フィジカルコーチがアドバイスしてくれたと話した仲川

川崎Fアカデミーの中村圭介フィジカルコーチがアドバイスしてくれたと話した仲川

 ――アカデミーに所属していた高校時代までの間で、転機があったとしたら?
 仲川 中学時代、僕はオスグッド(膝の関節痛)のため、3年間のうち1年半ほどは、まともにサッカーをすることができなかったんです。状態が良くなって復帰したと思ったら、また痛くなって休んで……、その繰り返しでした。3年生になって、ようやく痛みもなくなり本格的にプレーし始めたのですが、ブランクがありすぎて、なかなかレギュラーとして試合に出ることができませんでした。ようやく、サブ組のほうで試合に出られるという状態。つらい経験でしたが、その時期が僕にとってターニングポイントとなりましたね。

 ――それはどういった点が? また、当時はどのように自分の気持ちと折り合いをつけていたのですか?
 仲川 中村圭介さん(現鳥栖フィジカルコーチ)がアカデミーのフィジカルコーチを担当されていたんですが、僕にとっては、その中村さんとの出会いが、とても大きかった。リハビリ期間が長かったこともあり、中村さんは1番接する機会が多かったコーチで、実際によく話もしました。中村さんは、その時すでに僕の身長が、これ以上あまり伸びないだろうということも感じていたらしく、よく「身長が伸びない分、フィジカルを鍛えなければならない」とか「そういう考え方に方向転換していかなければだめだぞ」とアドバイスをしてくれました。また、リハビリで試合に出られない分、「自分が出場していないU-18の試合を見ろ」とか、「自分とマッチする選手をチェックし、海外の試合を見ろ」、「サッカーノートを書け」ともよくアドバイスしてくれましたね。

考え方も徐々に変化

考え方も徐々に変化

 ――仲川選手自身は、体が小柄なことをコンプレックスに感じていた時期はあったのですか?
 仲川 そうですね、身長が低いから、試合に出られないという気持ちもどこかにありました。もちろん、それを補うだけのスピードなど、特長もあったとは思うのですが、当時は、まだ持ち味を発揮する前につぶれてしまうことが多くて。だからこそ、“(身長が)伸びないかな”とよく考えることはありました。ただ、中村コーチとの出会いで、考え方も徐々に変化していきましたね。

 ――高校時代もその状況は続いたのですか?
 仲川 1年生の頃は、サブで途中から試合に出場することが多かったですね。徐々に、試合中のポジショニングのとり方やコツをつかめるようになった2年生からは、スタメンで出られるようになり、結果もついてくるようになりました。

自信を持つことやメンタルの大切さを痛感

自信を持つことやメンタルの大切さを痛感

 ――自分の武器や持ち味に気づいたのは、その頃ですか?
 仲川 それ以前に気づいてはいましたが、試合で実際に自分のパフォーマンスが出せていたかどうかというと、なかなかうまく表現できていませんでしたね。当時は、まだ内気で、自分の中で“試合に出ても全然駄目だし”と自信を持てていなかった。そんな折、すごくコンディションもパフォーマンスも良い試合があったのですが、それをきっかけに、自信を持ってプレーすることができ始めたんです。あらためて、自信を持つことやメンタルの大切さを痛感しましたね。かねがね、サッカーは失敗やミスがあるスポーツだと言われてはいたのですが、正直、それがどういう意味か理解できていなかった。でも、そういった経験から、ミスをしてもそこで下を向くのではなく、やり続けることの大切さに気づき、実際にそれがピッチでも現れるようになりましたし、スタメンで試合に出続けられることにもつながっていったと思います。

 ――しかし、トップ昇格は果たせませんでした。
 仲川 トップチームのキャンプにも参加し、自分的には手ごたえを感じていた部分もありましたし、当時、一緒に参加していた同じ歳で、同じFWの選手よりも、うまくチームになじんでプレーできているという感覚もあったので、昇格できないことが分かった時は、本当に悔しかったですし、精神的なダメージは相当なものでしたね。(トップに昇格できないと)伝えられた時は、ちょうどクラブユースの開催時期だったんですが、僕はショックを引きずってしまい、その時はあまりいいパフォーマンスが出せませんでしたね。

専大の方が自分には合っているかなと感じたと話した仲川

専大の方が自分には合っているかなと感じたと話した仲川

 ――そして、大学進学を決断。専大を選んだのは?
 仲川 専大か阪南大かという感じだったのですが、どちらの練習にも参加し、専大の方が自分には合っているかなと感じたのが、専大進学を決めた1番の理由です。練習は1時間半と短いですが、みんな向上心も集中力も高いですし、雰囲気も良かった。上級生とのコミュニケーションという面や自宅から近いことなど、総合的に判断し、決断しました。

 ――1年生で新人賞を獲得し、レギュラーでプレーするなど、ここまで順調なステップを踏んでいますね。
 仲川 個人的に結果を出すことができていますし、リーグ3連覇も達成できたという面でいえば、今のところ順調だと言えますが、それも、これまで積み重ねてきた経験があるからこそ。アカデミー時代に、フィジカルが弱くて試合に出られなかった時、自分に言い聞かせていたことは「努力し続けろ」という言葉だったのですが、その努力がようやく実になったというか、それらを実行し続けてきたからこそ、今があるのかなとは思いますね。(後編に続く)

 ◆仲川輝人(なかがわ・てるひと)1992年7月27日神奈川県川崎市生まれ。小学1年生でサッカーを始め、新町ジュニアーズSCに入団。小学4年生の時に、川崎Fのスクールに。その後、スペシャルクラス(当時)を経て、中学、高校ともに川崎Fのアカデミーで育った。11年、専大商学部入学。関東大学サッカーリーグでは1年生で新人賞を獲得し、3連覇を成し遂げた昨季は得点王、ベストイレブンを受賞した。昨年、ロシアで開催されたユニバーシアード競技大会代表で、銅メダル獲得に貢献。父清美さん(60)、母紀久子さん(58)、兄友晃さん(30)、姉美穂さん(25)、祖母智恵子さん(87)。162センチ、53キロ。血液型A

仲川輝人/専大・FW 後編

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あと10ゴールで歴代最多得点 目標は3冠!

 圧巻の攻撃力で昨季、関東リーグ3連覇を果たした専大。その攻撃の一角を担ったのが、15ゴールを挙げ、得点王に輝いたFW仲川輝人(3年=21)だ。相手選手も舌を巻くスピードや細かいタッチから繰り出されるドリブル、そして圧倒的な決定力でチームを勝利に導いた。昨季、専大を支えた長沢和輝、下田北斗の2人が抜け、どのような戦いを見せるか注目の今季。目指すは前人未到の4連覇と、リーグ、総理大臣杯、インカレの3冠達成だ。【取材・構成 石井宏美】

関東リーグ3連覇を達成した専大イレブン。仲川は前列右端

関東リーグ3連覇を達成した専大イレブン。仲川は前列右端

 ――大学で変化した部分は?
 仲川 僕は1つ1つのパスをそんなに丁寧にやるタイプではなかったのですが、パスがなければシュートも打てないわけですし、その1本で勝負が決まることもある。大学に入ってから、“パス1本の大切さ”を教えてもらったたような気がします。

 ――それは、周りに能力の高いパサーが揃い、また、彼らからパスを受けゴールを決めていたからこそ感じたのかもしれませんね。
 仲川 僕が1年次に4年生だった(町田)也真人(現千葉MF)くんは、いつも「はい、どうぞ。打ってください」というような親切なパスを出してくれていた。このライン(町田→仲川)で点を多く決めていたこともあり、パス1本の大切さを自然と教わったような気がします。僕はドリブルで仕掛けたり、パスを受ける立場ではあるのですが、パスの出し側になるというのも、自分のプレーの幅を広げるためには必要だなと感じましたね。

 ――ただFWというポジション柄、当然ながら得点にこだわる気持ちも強いですよね。
 仲川 もちろん、FWは結果を出さなければ評価されないポジションなので、ゴールに直結するプレーや得点を決めることは、最も重要な役割だと考えています。ゴールを決めるためにはどういったポジションを取るのか、どういうタイミングで走り出すのかと考えならプレーすることは、1年生の頃から継続的に行ってきたことですね。

リーグ3連覇を達成し喜ぶ専大イレブン

リーグ3連覇を達成し喜ぶ専大イレブン。刺激になったのは長沢の存在

 ――自身の向上心はもちろん、成長する上で刺激になる存在やライバルは必要不可欠だと思います。仲川選手にはそのような存在はいましたか?
 仲川 やはり(長沢)和輝(現ケルンMF)くんですね。1年の頃から試合に出て、一緒にプレーする中で感じたのは、(長沢選手の)体の懐の深さだったり、使い方のうまさ。本当にボールを取られないんですよ。当時から、自分は和輝くんを追い越さないと試合にも出られないし、そこを目指しつつ、追い抜くという目標を持っていました。だからこそ、練習の時にいつも最後に和輝くんと(下田)北斗(甲府)くんがシュート練習をしているところに、自分も加えてもらったり。2人のうまさは際立っていましたし、そういった時も、常に2人から盗めるものは盗んでいこうという姿勢で臨んでいましたね。和輝くんがどういう蹴り方をして、どういうシュートコースに蹴るのかを見て参考にしながら、自分のシュートの形というものも作ることができたと思います。

 ――仲川選手にとって、2人の存在は大きかったんですね。
 仲川 すごく大きかったですし、和輝くんも北斗くんも、大学の中でも1番といっても過言ではないくらい大事な存在でした。正直、1年生の頃から3年間一緒にプレーしてきたので、今は(2人が大学サッカーを引退して)すごく寂しいです。もちろん、2人は2人で、大学4年間を“やりきった感”があると思いますけどね。

 ――長沢選手も下田選手も、昨季は4年生としてのプレッシャーも感じながらプレーしていたと思いますが、そのあたりは身近にいて感じることはありました?
 仲川 2人ともすごくチームのことを考えてくれていたと思いますね。北斗くんの言葉で印象に残っているのは、「4年生になった時のプレッシャーが半端ない」ということ。下の学年をどう引っ張っていくかもそうですし、その中で自分自身のプレーも磨いていかなければならないわけですし…そのあたりのバランスをどううまくとっていくのかが難しいと話していました。

4連覇に向けた挑戦は自分たちにしかできないチャレンジ

4連覇に向けた挑戦は自分たちにしかできないチャレンジ

 ――まもなく4年生になりますが、仲川選手もやはりプレッシャーは感じますか?
 仲川 昨年、関東大学サッカーリーグで3連覇を達成しましたが、もし今年、リーグ制覇して4連覇を達成すれば史上初となる。これは自分たちにしかできないチャレンジなわけで、そういった面でプレッシャーはものすごく感じていますね。

 ――他大学からのプレッシャーもますます厳しくなると思います。
 仲川 そうですね。昨年も“専修大には負けない”という気迫に満ちたチームが多かったですからね。そういっていただけることは嬉しいことではありますけど。

 ――逆にそういったプレッシャーの中で戦うことが、成長につながる面もあると思います。
 仲川 そこで感じるプレッシャーが、逆に僕たちを奮い立たせてくれるでしょうし、いかに負けないよう試合を進めていくか大事になる。負けてはいけないプレッシャーも感じながらプレーすることは難しいことですが、しっかりと戦っていきたいですね。

自分たちのスタイルを築いていくと話した仲川

自分たちのスタイルを築いていくと話した仲川

 ――4連覇達成のために必要なものは何だと思いますか?
 仲川 和輝くん、北斗くんの2人が、あれだけの活躍を見せていただけに、抜けた穴はもちろん大きいと思います。ただ、昨年は2、3年生で試合に出ている選手もが多く、また、けが人などの影響もあり、1年生が出場することも多々ありました。その中で、選手それぞれがチームとして何をするべきか、何をしなければならないのか理解し、勝ち続けられたことは、今季、1つのアドバンテージなのではないかなと思います。ただ、同時にこれからは自分たちのスタイルというものも築いていかなければならないとも考えています。

 ――新チームの手応えは感じられていますか?
 仲川 昨年、和輝くんが不在だった9月の早稲田戦では、スムーズにボールが渡り、1タッチ2タッチで動かしながら相手陣地でプレーし、崩していくという戦い方で勝つことができました。その試合では、和輝くんがいなくても、自分たちのスタイルをピッチ上で表現することができるという手応えも得られたので、あとはボールを素早く動かしながら、攻守の切り替えをより迅速に行うことができれば、と考えています。

 ――個人的な目標は?
 仲川 あと9得点決めれば、(赤崎)秀平くん(筑波大→鹿島)が持っている、関東大学サッカーリーグの歴代最多得点(48得点)に並ぶんです。ということは、10点とればトップに立つことができる。まずは、その記録を超えることが目標です。

 ――今後どんな選手になっていきたいですか?
 仲川 自分が求めているのは、最近であれば、メッシ(バルセロナ)であったり、リベリー(Bミュンヘン)。そういう選手たちを目指しながら、自分の持ち味も表現し、ゴールを量産できる選手に成長していきたいですね。そして、いずれは日本代表、そして海外でプレーしたいという気持ちも強いです。

三冠と書いた色紙を持つ専大FW仲川

三冠と書いた色紙を持つ専大FW仲川

 ――では最後に今季の目標を教えてください。
 仲川 リーグ戦、総理大臣杯、全日本大学サッカー選手権(インカレ)の3冠です!

 ――インカレといえば、昨年末の準決勝・大阪体育大戦で敗れた後は、号泣でしたね。
仲川 試合に負けた悔しさと、これでもう4年生と一緒にサッカーができなくなるんだという寂しさがあり、こみあげてくるものがありました。試合に負けても、これまでほとんど泣いたことはなかったのに、あの時だけは、誰よりも号泣してしまって(笑)。自分でもびっくりでしたし、親も僕が泣いたところは見たことがないと驚いていました。

 ◆仲川輝人(なかがわ・てるひと)1992年7月27日神奈川県川崎市生まれ。小学1年生でサッカーを始め、新町ジュニアーズSCに入団。小学4年生の時に、川崎Fのスクールに。その後、スペシャルクラス(当時)を経て、中学、高校ともに川崎Fのアカデミーで育った。11年、専大商学部入学。関東大学サッカーリーグでは1年生で新人賞を獲得し、3連覇を成し遂げた昨季は得点王、ベストイレブンを受賞した。昨年、ロシアで開催されたユニバーシアード競技大会代表で、銅メダル獲得に貢献。父清美さん(60)、母紀久子さん(58)、兄友晃さん(30)、姉美穂さん(25)、祖母智恵子さん(87)。162センチ、53キロ。血液型A

車屋紳太郎/筑波大・DF 前編

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追いかける谷口にドリブルや推進力は負けていない自信

強豪・大津(熊本)から筑波大に入学し、1年時から新人賞を獲得するなど活躍し、レギュラーとしてチームを支える筑波大DF車屋紳太郎(21)。3年連続で全日本大学選抜に選出され、昨季はユニバーシアード競技大会で銅メダル獲得にも貢献した。複数のポジションをこなせるが、持ち味の身体能力の高さを生かし、現在センターバックとして筑波大守備陣をけん引する。副将になった今季は、04年以来となる関東大学サッカーリーグ制覇を目指す。【取材・構成 石井宏美】

筑波大守備陣をけん引するDF車屋紳太郎。今季は副将を務める

筑波大守備陣をけん引するDF車屋紳太郎。今季は副将を務める

――車屋選手がサッカーを始めたのは?
車屋 6歳年上の兄の影響もあって5歳の頃、サッカークラブに入りました。そのチームでは小学2年生までプレーしていたんですが、徐々に人数が減り、チームそのものが消滅してしまって。以後1年間はどこにも所属せず、1人で練習を行っていました。4年生になる頃に(谷口)彰悟さん(筑波大→川崎F)の勧めもあり、同じクラブチームでプレーすることに。中学はクラブチームではなく部活でサッカーを続けました。

――その後、高校は強豪・大津でプレー。
車屋 中学生の頃もサッカー選手に憧れてはいましたが、現実味があるかといえばそうではなかった。ただ、とりあえず、高校は強いチームでプレーしたいという気持ちが強く大津への進学を決断したんです。また、中学のサッカー部は県でも1、2回戦で負けてしまうようなチームだったので、一度は強いチームでサッカーがやりたいという気持ちも強かったんです。さらに、昔から高校サッカーをよく見に行っていたこともあって、その中でも大津は憧れ存在でしたからね。私生活の面でもしっかりとしているとイメージもあり、ここプレーするのが間違いないだろうという確信を感じていました。

――その大津での3年間に吸収したものは?
車屋 とにかくきつかったという印象が一番強いですね。毎朝4時半に起床で、5時20分に電車に乗り、6時から朝練習。もちろん放課後も練習。朝は倒れそうになりながら学校に行っていた記憶があります。もう、これ以上きついことなんて、ないのではないか? という経験は、自分の大きな財産。あれを乗り越えることができたので、どんなことが立ちはだかっても、乗り越えられるのではないかという感覚はありますね。

――まさにサッカー漬けの生活だったんですね。
車屋 毎日5時間寝られるかどうか、というくらいでした。早く帰ろうと思えばそうできたのですが、結局みんな全体練習が終わっても、自主練習をするので、帰宅時間が遅くなってしまう。早くても21時、遅い時は22時を過ぎることもありました。家に帰ると風呂に入って、夕食をとって、寝る。テレビを見る余裕なんてほとんどありませんでしたよ。

筑波大DF車屋紳太郎

大津で考える範囲や視野も広がったと話した車屋

――そのような生活になることはある程度予想し、覚悟もしていたことと思います。辞めたいと思ったことは?
車屋 大津では運よく1年目からトップチームの練習に参加することができたんですが、毎日とにかく周りについていくことに必死で、練習が終わるとボロボロになって帰宅するという状態。辞めるもなにも、そういうことを考える余裕さえありませんでした。また、最初は大津に入ったら、周りはうまい選手ばかりいて、僕はそこについていく感じかなと予想していたんですが、いざ入ってみると、引っ張る立場になることも多くて。そこは大変だったというか、もう自分でやるしかないという感じでしたね。

――1年生の中でも引っ張る立場としてプレーし、自身変化したと感じたことは。
車屋 中学まではチーム自体もあまり強くなかったので、狭い範囲でしか物事を考えていなかったのですが、大津は全国区のチームということもあり、そういう意味では考える範囲や視野も広がったような気がします。常に全国を意識してプレーするようになったかなということは、自分でも感じますね。

――高校時代までの間で転機があるとしたら?
車屋 これといった大きなポイントはありませんが、とにかく発見と衝撃の連続で、毎日が刺激的だったというか、純粋に楽しかったですね。よく先輩のプレーを見て勉強していました。

大津では発見と衝撃の連続。その中でも谷口(左)の存在は勉強になった

大津では発見と衝撃の連続。その中でも谷口(左)の存在は勉強になった

――勉強になったのは?
車屋 やはり彰悟さんですね。ベンチで見ている時も、彰悟さんのプレーばかりを目で追っていました。僕が予想もしていないようなプレーをしたり、自分では見えないようなところにパスを出していたり。とにかく衝撃的なことばかりでした。当時は朝練も一緒にしていたんですが、僕は本当にずっと彰悟さんの真似ばかりして。時には走り方まで真似してみたり(笑)。ただ、真似をしてみたところで、全然うまくいかないんですけどね。

――刺激になる存在であり、ライバルでもあった?
車屋 いや、全然。僕なんかほど遠いですよ(笑)。幼い頃から、自分の中では、“あの人だけには勝てない”という思いがありますし、今も追いかけている状態ですね。

――でも、そういう存在を追い越していかなければいけない、追い越したいという気持ちもあるのでは?
車屋 先ほどよく真似をすると話しましたが、なかなかうまくいかないんですよね。例えば、彰悟さんがボランチでポゼッションの練習をよくするんですが、そこでボールの受け方や“止めて蹴る”という部分を真似すると、「自分には向いてないな」「無理だな」と感じたりして。ただ、最近考え始めたことがあって、同じようにはできないけれど、彰悟さんができないプレーで、僕ができるものもあるのではないか、ということ。例えばドリブルであったり、前へ進む推進力は負けていないという自信がありますし、そういった面で、どんどん勝負すべきかな、と今は考えています。

――最近とは?
車屋 大学に入ってからですね。そうひっても、やはり彰悟さんのプレーはかっこいいので、どうしても真似したくなってしまうのですが(笑)。そして毎回、結局、自分はこのプレーじゃないんだなというところにたどりつく(笑)。ただ、他の選手のプレーを参考にすることもすごく大切なことだと考えていて、持ち味である前にただいくだけではなく、パスをさばいたりするなど、そういった練習も、着実に自分の実にはなっているという実感はあります。

――そんな車屋選手が理想とするDF、またはCBの理想像とは?
車屋 理想的なのはパスを縦につけられ、なおかつパスの移動距離が長い選手ですね。(後編に続く)

◆車屋紳太郎(くるまや・しんたろう)1992年4月5日熊本県熊本市出身。5歳の頃にサッカーを始め、タイケン、熊本ユナイテッドSCでプレー。中学時代は長嶺中学校サッカー部に所属。高校は強豪・大津へ進学。11年日本高校選抜。同年4月筑波大学体育専門学群入学。1年時に関東大学サッカーリーグで新人賞受賞。13年7月のユニバーシアード競技大会代表で銅メダル獲得に貢献。昨季リーグ戦ではベストイレブン受賞。今季は筑波大の副将を務める。父正史さん、母亨子さん、兄翔太さん(27)、姉早紀さん(25)、祖父末芳さん、祖母芳江さん。178センチ、70㎏。血液型A。


車屋紳太郎/筑波大・DF 後編

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Jの舞台に立ち、どれだけやれるのか試したい

 強豪・大津(熊本)から筑波大に入学し、1年時から新人賞を獲得するなど活躍し、レギュラーとしてチームを支える筑波大DF・車屋紳太郎(21)。3年連続で全日本大学選抜に選出され、昨季はユニバーシアード競技大会で銅メダル獲得にも貢献した。複数のポジションをこなせるが、持ち味の身体能力の高さを生かし、現在センターバックとして筑波大守備陣をけん引する。副将になった今季は、04年以来となる関東大学サッカーリーグ制覇を目指す。【取材・構成 石井宏美】

筑波大守備陣をけん引するDF車屋紳太郎。今季は副将を務める

筑波大守備陣をけん引するDF車屋紳太郎。今季は副将を務める

 ――大学でも様々な刺激を受けながらプレーしていると思いますが、筑波大進学を決断した理由は?
 車屋 筑波大出身の平岡(和徳)先生(大津高校監督)の勧めもあり、また、彰悟さんも筑波大に進学をしていたので、総合的に考えて決断しました。また、経済的な面を考えても、国立大である筑波大が一番いいかな、と。正直、筑波大以外の選択肢は考えていませんでしたね。

 ――筑波大のサッカーに魅力を感じる部分は?
 車屋 大学進学を考えている時に、筑波大の監督を務めていたのが風間(八宏・現川崎F監督)さんだったのですが、風間さんのことはよくテレビで拝見していて、すごい方だなという印象を持っていました。その方からサッカーを教えて頂けるのであれば、ぜひ筑波大でサッカーをやりたいな、と。2日間くらい練習に参加した際も、筑波大のサッカーを体感すること以上に、風間さんが指導される姿を見て、感化された部分は大きかったですね。

 ――大学サッカーで車屋選手が得たものとは?
 車屋 基本的なことですが“止めて蹴る”という部分。風間さんもよく、常に蹴られるところに(ボール)を置いておくとおっしゃっていたのですが、本当に1つ変わっただけでサッカーが簡単になったというか、プレーしやすくなった。それは身をもって感じましたね。また、それまでは中盤でプレーすることが多かったのですが、風間さんとの出会いで、自分にあっているポジションはCBだと感じ、自信を持つことができました。

常々、「大丈夫か?」と自問自答しながらプレーしていると話した車屋(右)。左は谷口

常々、自問自答しながらプレーしていると話した車屋(右)。左は谷口

 ――中盤からCBにポジション転向する際は、最初から素直に受け入れらましたか? 中盤で勝負したいという気持ちも強かったと思います。
 車屋 最初にCBでプレーしたときは、いろいろ細かいことを考えることより、何もわからずにやっていたという感じです(笑)。ただ、CBでプレーするようになって、日に日に成長していることを自分でも実感することができました。それに、筑波大ではCBでもよくボールが回ってくるので楽しかった。そして、自分がこの先、プロサッカー選手としてプレーしていくのでれば、サッカーでご飯を食べていくのであれば、このポジションなんだなとも実感しましたね。

 ――プロ選手になることが、明確な目標になったのは?
 車屋 やはりCBとしてプレーするようになった大学1年の時ですね。また、一緒にプレーする先輩たちがプロ選手になる姿を見て、自分でもやれるのではないかという気持ちにもなりました。1年時に関東大学サッカーリーグで新人賞を取れたことも、大きな自信になりましたね。

 ――これまで、壁を感じることはありましたか?
 車屋 壁という言い方が合っているかどうかはわかりませんが、うまくいかないことの方が実際は多いと思いますよ。今は大学サッカーという舞台でプレーしていますが、プロという明確な目標ができたことで、プロになるような選手が、このレベルで満足していて大丈夫なのか?と考えながらプレーはしていますね。また周りからの目が気になり、ときにはプレッシャーに感じ過ぎてしまうところがあるので、常々、「大丈夫か?」と自問自答しながらプレーしています。

 ――壁といっていいかどうか分かりませんが、昨年シーズン開幕前の負傷は、1つの試練だったと思います。この経験が、車屋選手にもたらしたものとは?
 車屋 昨年1月始めの練習試合で右足前十字じん帯を損傷し、4カ月ほどサッカーができなかった時期がありました。大きなケガをしたのは、これが初めの経験。精神的にはかなり厳しいものがありましたね。毎日、グラウンドには出るのですが、練習が始まると自分だけが外に出ていき、筋トレなど地味にトレーニングを行う。ボールを触ろうものなら、同級生のトレーナーに怒られて。ケガ後の1~2カ月頃は、その彼と度々言い合いをすることもありました。

 ――そういったケガの経験から発見したことは?
 車屋 今までそこまで深く考えていませんでしたが、本当に練習ができるだけでも幸せなことなんだなと思いましたね。なによりも、自分はサッカーが好きなんだと痛感しましたし、”早くサッカーがしたい!”その気持ちだけでした。

奪還と書いた色紙を持つ筑波大DF車屋紳太郎

奪還と書いた色紙を持つ筑波大DF車屋紳太郎

 ――いよいよ大学サッカーラトシーズンが始動しました。車屋選手は今年、副将を務めるそうですね。
 車屋 候補に名前が挙がってはいたのですが、僕自身、最初はまったくやるつもりがなかったんですよ(笑)。そういったキャラではないですし、自分よりもしっかりとした、副将に適している人は他にいると思っていましたからね。でも、チームメイトたちと今後のチームのことを話し合った際に、いろいろと発言をした結果、僕が副将にという流れになって(笑)。予想外でした(笑)。ただ、副将になる、ならないは別として、ピッチ上ではしっかりチームを引っ張っていこうとは考えていました。

 ――谷口選手を始め、赤崎秀平選手(鹿島)、上村岬選手(磐田)など、中心メンバーが卒業しましたが、そういった面でプレッシャーは感じますか?
 車屋 「今年は大丈夫かな?」という声もよく聞かれるのですが、逆にこの状況は、そういった声を見返すチャンスだと僕は捉えています。

 ――現段階で自分自身が課題としているところ、また、この1年で成長させたいのは、具体的にどんなところでしょうか?
 車屋 課題としているところは、メンタル的な面ですね。まだ練習中などに少しイライラしてしまうことがあって、ムラがあるというか……。もっとメンタルコントロールができるようにならないと。チームを引っ張る立場ですからね。また、大学サッカーに加え、Jリーグのキャンプや練習に参加し、自分が現状でどれだけ通用するのか、何が足りないのかを感じ、それを今後に生かしていきたい。また、機会があれば、Jリーグの舞台に立ち、どれだけやれるのか自分を試したいですね。

 ――将来的にはどんな選手になりたいですか?
 車屋 自分のところまでボールが来た時には、必ず相手の攻撃を阻止する。また、ディフェンス能力も非常に重要ですが、加えて、ポゼッションに参加して行ける選手というのが理想であり、アシストやゴールに絡む仕事、またゴールを決められるDFが理想ですね。

 ――具体的に目標とする選手は?
 車屋 バルセロナだとピケやマスチェラーノ、ユベントスのキエッリーニ。あと、自分の中では、特徴を最大限生かしたプレーで魅せるセルヒオ・ラモスが理想ですね。

 ――では、あらためて、少し早いですが今季の目標を教えてください。
 車屋 リーグ戦、総理大臣杯、そして全日本大学サッカー選手権大会と、どの大会でも安定した力を発揮したい。その結果、優勝に絡んでいけるチームになればと考えています。

 ◆車屋紳太郎(くるまや・しんたろう)1992年4月5日熊本県熊本市出身。5歳の頃にサッカーを始め、タイケン、熊本ユナイテッドSCでプレー。中学時代は長嶺中学校サッカー部に所属。高校は強豪・大津へ進学。11年日本高校選抜。同年4月筑波大学体育専門学群入学。1年時に関東大学サッカーリーグで新人賞受賞。13年7月のユニバーシアード競技大会代表で銅メダル獲得に貢献。昨季リーグ戦ではベストイレブン受賞。今季は筑波大の副将を務める。父正史さん、母亨子さん、兄翔太さん(27)、姉早紀さん(25)、祖父末芳さん、祖母芳江さん。178センチ、70キロ。血液型A。

松沢香輝/早大・GK 前編

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 早大は昨季、関東大学サッカーリーグ2位と優勝にわずかに及ばなかった。その前に立ちはだかったのが、現在リーグ3連覇中の専大だ。大学2年からゴールマウスを守るGK松沢香輝(3年=21)は、「(専大の)4連覇だけは阻止しなければならない、今年こそは自分たちが必ず優勝したい」と意気込む。早大の守護神が1996年以来18年ぶりとなるリーグ戦制覇をもたらす。【取材・構成 石井宏美】

早大のゴールマウスを守るGK松沢香輝

早大のゴールマウスを守るGK松沢香輝

 ――松沢選手がGKのポジションでプレーするようになったのは?
 松沢 実は小学2年生まではセンターバックでプレーしていたんですが、当時は全く試合に出場することができませんでした。そんな時、体が大きなこともあって、コーチから勧められたポジションがGKだったんです。幼い頃は泣き虫で、精神的にもすごく弱かったので、本当に(GKに)むいていないと思いましたね。実際、あまり声もだせず、本当に苦労しました。

 ――それでも諦めることはなかったんですね。
 松沢 自分でもよく分からないのですが、あれこれ考えるよりも、とにかく常にガムシャラにプレーしていました。毎日ボールが見えなくなるような時間までトレーニングをしていたのは、記憶に残っています。今、こうしてGKというポジションでプレーし続けられているのは、コーチや周りの方々の協力のおかげですね。ようやくGKとして自信が付き始めたのは小学5年の頃でした。

 ――中学時代は東京Vのジュニアユース、高校は強豪・流通経大柏でプレーしました。
 松沢 実はジュニアユースからユースに上がれなかったです。僕自身の実力不足もありましたが、同じ歳のGKにはキローラン菜入(現東京V)がいて、二人ともユースでプレーするよりも、別々の道に進み、試合に出られる可能性の高いチームでプレーすることを選択したほうが、お互いの成長につながるという意図もあって、高校でサッカーを続けることを決意。ヴェルディは、まだサッカーが下手な時に声をかけてくれたクラブであり、もし、ヴェルディに入れていなかったら、きっと今の自分はないですからね。そういった面でいえば愛着もありますし、感謝の気持ちも強いです。

 ――同級生であるキローラン菜入選手に対するライバル意識は強かったですか?
 松沢 菜入は常に切磋琢磨してきたGKで、もちろんライバルでもありました。ジュニアユース時代は、どちらか一方が試合に出続けるという状況はなく、1年生の時は僕が、2年から3年の夏までは菜入が、そしてそれ以降は菜入のケガによりまた僕が試合にでるよう……というように、
スタメンとベンチの繰り返しでした。だからこそ、本当に負けたくない気持ちは強かったですし、菜入にはない部分で勝っていこうという常に考えてプレーしてきました。

 ――将来プロになることをすでに意識していましたか?
 松沢 実際にプロになろうと決意したのは、中3年のスタッフとの面談でユースに昇格できないと言われた時でした。「高校を卒業した後に、またヴェルディに戻ってきてくれ」と言われた時に、必ずプロになろうと決意しました。でも、高校に入ってからは挫折の繰り返しで。最後の選手権で試合に出られなかった時には、もはやプロという選択肢は消えていました。ただ、そこで、大学で試合に出て、見返してやるという気持ちが強くなりましたし、大学卒業後にプロになる!と強烈に感じましたね。

 ――流通経大柏への進学を決めたのは?
 松沢 どこへ進学するか迷っている時期に、ちょうど高円宮杯が行われていて、その大会で流経大付柏は決勝まで勝ち上がっていました。(決勝)前日に初めて練習に参加させていただくことになったのですが、そこで「強いチームだな」と実感。ここでサッカーをしたいと気持ちが強くなり、(流経大付柏への)進学を決意しました。

 ――新しい環境での挑戦。クラブ組織との違いを感じたり、戸惑ったこともあったのでは?
 松沢 まず、最初に感じたのは、上下関係の厳しさでしたね。ただ挨拶をするだけではなく、大きな声で挨拶をしなければなりませんし、先輩に対しての接し方も考えなければならない。理不尽なこともありましたが、その経験があったからこそ、今の自分があると思います。大学生になった今は、多少理不尽なことがあっても、まったく気にせずプレーできていますが、そういった厳しい環境に身を置いたからこその賜物。あの3年間で精神的、そして人間的に大きく成長することができましたね。

 ――ピッチ上での厳しさも想像以上だと思います。
 松沢 1本のミスも許されないような環境でしたね。高校時代、僕は致命的なミス、仲間の信頼を失ってしまうようなプレーも多かった。それが原因で、試合に出られなかったこともありました。

 ――どんなことを考えながらプレーしていましたか?
 松沢 例えば、高校最後の選手権。自分が出られない理由を考えるのですが、試合に出ているGKは、自分よりもキックがうまい選手で、逆に僕はハーフウェーラインまでも飛ばないくらいキック力が不足しているのは明らかでした。そこで、試合に出ている選手と自分は何が違うのかと整理し、課題や不足部分を大学でどのように補うか、どのようなトレーニングを行えばいいか、考えていましたね。

 ――高校時代も苦しい経験をしていたんですね。
 松沢 同じ代には主張する選手が多く、僕もミスをしようものなら、心が折れるほど、容赦なくいろいろ言われましたよ(笑)。今となっては、間違いなくそれらは良い経験だったと胸を張れますが、当時は本当に悔しかった。でも、信頼されているGKは、1回ミスをしたところで、”次はいいプレーをしてくれる“という確信から、そんなに言われることもないと思うんですよね。だからこそ、当時は悔しくて仕方ありませんでしたが、GKというミスが致命的となるポジションでプレーする僕に対し、その都度、叱咤激励してくれた仲間やチームメイトには感謝しかありません。信頼なる選手にならなければならないと感じさせてくれたのも、そういった人たちのおかげですし、大学では自分の心と頭を整理してプレーできるようなったと思います。

 ――毎日がガムシャラの高校時代。そういった中で、どういった部分にGKの楽しさを見出していましたか?
 松沢 1回のミスでチームの結果が左右されるポジションですが、チームメイトのミスをカバーできるところでもある。また、難しいシュートやピンチを防いだ瞬間に信頼を得られるポジションであり、そういった意味では、“止めることの楽しさ”もありますし、チームの危機を救うプレーができるのは、このポジションならではですよね。

 ――結局、失点をしなければ、少なくとも負けることはないわけですからね。
 松沢 そうですね。強いチーム、優勝するチームには絶対に良いGKがいると僕は思っています。そういった面からも、GKというポジションの重要性は、年々痛感するようになっていますね。(後編に続く)

 ◆松沢香輝(まつざわ・こうき)1992年4月3日神奈川県生まれ。5歳でサッカーを始め、城北アスカFCに入団。セレクションに合格し、小学3年生でヴェルディジュニア入り。その後、東京Vジュニアユースを経て、流通経大柏でプレー。2011年早大スポーツ科学部入学。大学2年時にジェフ千葉のJFA・Jリーグ特別指定選手に。13年全日本大学選抜。14年度関東選抜B。父淳二さん、母晴美さん、姉彩香さん、兄賢士郎さん。182センチ、79キロ。血液型O

松沢香輝/早大・GK 後編

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 早大は昨季、関東大学サッカーリーグ2位と優勝にわずかに及ばなかった。その前に立ちはだかったのが、現在リーグ3連覇中の専大だ。大学2年からゴールマウスを守るGK松沢香輝(3年=21)は、「(専大の)4連覇だけは阻止しなければならない、今年こそは自分たちが必ず優勝したい」と意気込む。早大の守護神が1996年以来18年ぶりとなるリーグ戦制覇をもたらす。【取材・構成 石井宏美】

関東リーグ優勝と書いた色紙を持つ早大GK松沢香輝

関東リーグ優勝と書いた色紙を持つ早大GK松沢香輝

 ――早大学進学したのは?
 松沢 流経大の付属高校ということもあり、最初はそのまま進学するしかないのかなと最初は思っていました。ただ、試合に出られず「他の大学でプレーしてみたい」と考えるようになった時期に、ちょうど早大から声をかけていただき、また2つ上の先輩の野村(良平)さんも進学していたこともあって、早大に進学しようと決断しました。

 ――その時点で早大がどんなサッカーをするかは、まだ知らなかった?
 松沢 当時、早大はリーグ戦で10位くらい。あまり強くないのかなという印象があるくらいで、どういうサッカーをするのか、どんなチームなのかは、まったく分かりませんでした。それでも、自分のことを知らないという環境でプレーしてみたかった。最初にいい印象を与えれば、絶対にいいスタートを切ることができると考えていましたからね。新天地でも、不安を感じることはまったくなかったですね。むしろ、僕はそういった状況をプラスにとらえていました。とにかく最初に信頼を勝ち取って、試合に出ようという気持ちだけ。最初が肝心だな、と。

 ――2年生からはレギュラーとして活躍。千葉の特別指定選手としてもプレーしました。
 松沢 あの経験は、自分にとって非常に貴重な経験になりましたし、自信をつける最も大きなきっかけになりましたね。千葉の特別指定選手になっていなければ、おそらく1選手として成長していなかったでしょうし、インカレ(2012年度)のタイトルも獲ることができていなかったでしょう。それほど影響をされた大きな経験でした。

 ――具体的にどういった部分が刺激に? 
 松沢 夏に長い期間、千葉の練習に参加させていただいたんですが、まず最初は自分の駄目な部分を指摘され、GKコーチから徹底的に指導を受けました。“このままでは大学ではできても、プロでは全然通用しない”と感じましたし、すべてにおいて不足していると自覚するきっかけになりました。また、周りのGKを見ていて、プロで活躍するための必要なレベルも実感。大学2年で自分とプロとの差を感じられたことは大きな経験であり、これから自分が何を意識してトレーニングしなければならないのか、あらためて把握し、整理するきっかともなりました。こういう経験を大学2年で味わえたのは、大きいですよね。

2012年度にはインカレ優勝も経験

2012年度にはインカレ優勝も経験

 ――純粋にプロになりたいという気持ちも強くなったのでは?
 松沢 特別指定選手といえども、チームの一員であり、周りもそのように接してくれるわけですからね。多少なりともプロ意識がついたと思いますし、みっともないプレーはできない、特別指定選手にふさわしいプレーをしなければという自覚も出てきました。それが精神的にも、プレー面でも、成長につながったのかなと思います。

 ――様々な経験、そして人々との出会いが松沢選手の成長につながってきていると思いますが、そういった意味では早大ア式蹴球部・古賀聡監督との出会いも大きいのでは?
 松沢 そうですね、早大に入って、もちろん選手としてもそうですが、それと同じくらい人間的としても成長できました。大学では学生が主体。たとえコーチがいなくても、自分たちなりに考え、積極的にトレーニングやミーティングを行います。人間的に成長できたのも、そういった学生主体のコンセプトがあったからこそだと思いますし、それを一番体現していたのが古賀監督だったのかもしれません。監督がそういうもの(コンセプト)を明確に示してくれるからこそ、選手である僕たちも、“人間としての成長”を意識し成長し続けてこられたのかな、と感じます。

 ――昨年、早大はリーグ戦2位でした。松沢選手は後期の日体大戦で負傷し、離脱を余儀なくされましたね。
 松沢 (日体大で)脳震盪を起こし、1週間の休みをとった後に復帰したんですが、今度は指を骨折。「ついてないな~」と思いましたよね(苦笑)。

 ――複雑ですね。
 松沢 ケガの間、出場していたGKが良いプレーを続けていたので、復帰してからもなかなかポジションを奪うことができませんでした。最終節でようやく試合に出場することができましたが、「このまま最期まで試合に出られなかったら、どうしよう……」という不安も頭をよぎりましたね。ただ、そういった期間を経験して、サブの選手として何をしなければならないのか、他の選手が良いパフォーマンスをするために、ケガ人としてどういったサポートをするべきなのか、異なる視点から考える良いきっかけになりました。“試合に出られないから、ただ悔しい”だけで終わらせず、そこからすべきこと考えたあの期間は、自分にとって非常にプラスになったと思います。

 ――今シーズンは、是が非でも専大のリーグ4連覇を阻止したいところですね。
 松沢 間違いありません! 早大は18年間関東大学サッカーリーグ戦タイトルを獲れていないので、ぜひタイトルを獲りたい。もちろん、昨年も、そして一昨年もリーグタイトルを目指してきましたが、常にそこには専大という壁が立ちはだかった。今年こそは自分たちが絶対に優勝したい。専大の4連覇を阻止できるよう頑張っていきます。

 ――松沢選手自身が今シーズン、テーマにしたいと考えていることは?
 松沢 個人的にはプロになるという目標を達成するためにも、まずはチームで結果を残さなければと強く感じています。なによりも第一にチームのことを考え、“関東リーグ制覇”に向かって取り組んでいけば。おのずと個人の目標も近づいてくるのかなとも思います。

 ――理想とするGK像は?
 松沢 フィールドの選手たちが、後ろで守ってくれていると安心感を持つような、存在感のある選手。自分のプレースタイルを考えた時に、これといった大きな特徴があるタイプではないので、安定感やそういった面をアピールしていきたいなと思いますね。

 ◆松沢香輝(まつざわ・こうき)1992年4月3日神奈川県生まれ。5歳でサッカーを始め、城北アスカFCに入団。セレクションに合格し、小学3年生でヴェルディジュニア入り。その後、東京Vジュニアユースを経て、流通経大柏でプレー。2011年早大スポーツ科学部入学。大学2年時にジェフ千葉のJFA・Jリーグ特別指定選手に。13年全日本大学選抜。14年度関東選抜B。父淳二さん、母晴美さん、姉彩香さん、兄賢士郎さん。182センチ、79キロ。血液型O

ブンデスデビュー果たした長沢 ケルンでの日々/番外編

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【大学蹴球番外編】ケルン長沢のドイツ便り1
 ブンデスリーガ2部ケルンに新加入したMF長沢和輝(22)。12月末の契約発表後、年明けの1月4日には渡独し、早速、チームのトルコキャンプに帯同。2月9日、冬季中断明けの初戦パーダーボルン戦では、68分に途中出場し公式戦デビューを果たした。大学サッカーから海外へ飛び立った屈指のMFが、チームのブンデス1部復帰に向け全力を注ぐ。
 プロ、ブンデス1年目の長沢の奮闘の日々に迫る。【取材・構成 石井宏美】

ライン川沿いの閑静な住宅街で新生活をスタートさせた長沢選手が、自宅ベランダから街の様子をカメラに収めてくれた。「すぐ近くに教会があって、毎朝、その教会の鐘の音で目を覚ますんです」

ライン川沿いの閑静な住宅街で新生活をスタートさせた長沢選手が、自宅ベランダから街の様子をカメラに収めてくれた。「すぐ近くに教会があって、毎朝、その教会の鐘の音で目を覚ますんです」

 ――ケルンには、昨年11月に1度、練習参加していますが、実際に加入し、当時との違いを感じることはありますか?
 長沢 練習参加の時よりも、周りの選手からチームメイトとして受け入れられているのかなという印象を受けます。ただ、チームに合流してわずか1カ月程度ということで、まだ自分のパフォーマンスを監督やコーチ、そして選手たちに完全に理解してもらえてはいないですし、自分自身もできることとできないことを見極められていない状態。これまでと置かれている立場は異なりますが、常にいいプレーをしたいという思いでピッチに立っています。

 ――結果を求められるのがプロ。ただ、新しい環境の中で関係性を作ったり、そういった中でのプレーに楽しさも感じていると思います。
 長沢 昨年は(大学)4年になって、大きなプレッシャーを感じながらプレーしていましたが、今はその状況とは違い、またレベルも違うなかで、楽しんでプレーすることはできていると思います。アマチュアとプロの違いを完全に理解しているかといえば、そうではないでしょうけれど、「どんどんチャレンジしよう!」というポジティブな感情を保つことができていますね。

 ――2月9日の冬期中断明け初戦のパーダーボルン戦では68分から途中出場しました。いきなり公式戦デビューを果たしましたね。
 長沢 当日のミーティングまでは、まったくメンバーが分からなかったんですよ。スタメンは厳しいけど、ベンチには入れるか入れないかのラインかなと予想はしていたのですが、スタメン以外の選手も能力のある選手がたくさんいたので、どうなるかわからないというのが正直な気持ちでした。ただ、中断明けの1つ前の試合で、途中交代で使ってもらえていたので、可能性はあるかなとは思っていました。

 ――デビューは早かったと? それとも想定内?
 長沢 同じポジションに良い選手がたくさんいることを考えると、早かったのかなとは思います。最初のミーティングでは何を言っているのかも全く分からない状態でしたから、それを考えれば、初戦で出られたのは大きいですね。

 ――実際に試合に出ていかがでしたか?
 長沢 あれだけ多くの観客の前でプレーするのは初めての経験でしたし、試合に出られたこと自体は良かったなとは思います。ただ、あの時間帯で出されたということは、点に絡むことが自分には求められていたわけですよね。そこで結果を残せなかったことは、しっかりと反省しなければならないし、次の機会にはしっかりと結果を残さなければという引き締まる思いでいます。

 ――デビュー戦の点数をつけるとしたら?
 長沢 長い時間試合に出ていたわけではないので、評価しづらいところはあるのですが、あえてつけるとしたら……50点ぐらいですかね(苦笑)。

 ――ボールにもよく絡んでいて、前線の選手とのコンビネーションも良い感じだなという印象がありましたが。
 長沢 ギャップでは顔を出して…というようなプレーが特長なので、そういった部分をもっと出せればいいなと考えていたのですが、途中から長いボールで攻めるというような感じになり、また、自分の中では“このギャップだった(ボールを)もらえるな”と考えていても、周りは“ボールを出せない”と考えていたり…そういったところで、少し感覚が異なる部分はありました。ただ、どちらかが正解で、どちらかが間違っているという問題ではなく、これから、お互いにすり合わせていけばいいことだと思っています。今後、さらに自分もチームメイトを、チームメイトも自分のプレーに対する理解が深まれば、それだけプレーの幅や選択肢も広がっていくと思います。

 ――純粋にサッカーを楽しむことはできていますか?
 長沢 言葉や生活自体で分からないことも多くあって大変なこともありますが、クラブハウスや練習場、新しい環境にも徐々に慣れてきて、楽しくサッカーができていると思います。

 ――生活面で何が大変でした?
 長沢 チームから借りている車で練習場に通っているのですが、道路の車線が日本とは逆側になるじゃないですか。つい日本の感覚で、左側を走ろうとして焦ったことがありました(笑)。
本当にドイツに来た当初は何も分からず、環境も異なり、生活面でもコミュニケーションの部分でも、ストレスに感じる部分もあったのですが、今は少しずつ慣れ、ある程度、話さなくても相手のしぐさでも分かるようになったり、分かる言葉で説明をしたり、ポジティブに捉えられるようになっているかなと思います。

 ――感性も磨かれそうですね。
 長沢 景色などはもちろん、生活スタイルや時間に対する考え方も、日本とは全然違うなと感じています。実際に海外で生活しないと分からないようなことを、わずか1カ月程度でも感じつつあるので、そういうことを経験できているのは、大きいなと感じますね。

 ――ちなみに、現在、ドイツ語の勉強は?
 長沢 チームでドイツ語、または英語の教室が始まるのですが、どちらかやりたいほうを選ぶようで、最初はある程度、基礎ができていて理解していることも多い英語を選択しようと思っています。

 ――では、あらためて今シーズンの目標を。
 長沢 トルコキャンプの時はまったく試合に絡めないようなポジションにいて、それでも最後は、途中交代とはいえ、試合に出られるようになった。この先もできるだけ多くの試合に絡み、そして勝利に貢献していきたいと思います。

※大学サッカーを巣立った長沢選手のドイツでの様子を当コラムで不定期連載します。

伊東純也/神奈川大・FW 前編

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得点王狙っていた

 昨季、関東大学サッカーリーグ2部得点王に輝いた神奈川大FW伊東純也(20)。「大学サッカー最後の年は1部で」と、1年で1部復帰を目標に臨んだ昨季だったが、残念ながら4位に終わった。大学サッカーラストシーズンとなる今季は、これまで以上に「自分が決めなければ」という覚悟で挑み、1試合1得点、20得点突破を目指す。

関東大学2部得点王に輝いた神奈川大FW伊東純也。今季は20得点突破を目指す

関東大学2部得点王に輝いた神奈川大FW伊東純也。今季は20得点突破を目指す

 ――伊東選手がサッカーを始めたのは?
 伊東 近所に住んでいる幼馴染の影響もあり、小学1年生の時に地元のクラブチームに入ることになりました。そのクラブチームには6年生まで所属し、中学は横須賀シーガルズジュニアユースに。当時、漠然とプロになりたいという夢は持っていましたが、小学から中学に上がるときに受けた横浜F・マリノスのジュニアユースにセレクションに落ちてしまって、正直、(現実としては)厳しいのかなと思いましたね。そういうこともあって、中学時代はあまり(プロを)意識していませんでした。

 ――伊東選手の持ち味といえば、スピードだと思いますが、幼い頃から武器だと捉えていましたか?
 伊東 小学生の頃から足は速くて、学校ではいつも1番でした。だからといって、当時から特別それを意識してプレーしたわけではないんですけどね。実は父がサッカー経験者で、小学校時代は僕が入っていたクラブチームのコーチを務めていたのですが、昔からスポーツをしていた父親譲りの部分は継いでいたのかもしれませんね。

 ――高校は逗葉に進学。神奈川と言えば、他にも強豪、名門校も多数ありますが、他の選択肢は考えることはありましたか?
 伊東 私立の推薦も可能ではあったのですが、僕は3兄弟の長男で、弟のことなども考えると、私立はないかなという結論に至ったんです。親にも経済的な負担をかけたくなかったですから。また、逗葉は自分が入学する前に、選手権予選で決勝まで進出していたので、公立の中では強いかなというイメージも強かったんです。実際は、神奈川県予選を勝ち上がるのは、なかなか難しかったですけどね。

 ――逗葉高での3年間を振り返ると?
 伊東 幸い、1年生の頃から試合に出ることができ、引退するまでコンスタントに出場できたのは大きかったと思います。何か特別なことをしたという記憶はありませんが、常にドリブルは意識して練習していたような気がします。少し後悔があるとしたら、もう少し意識を高く持ってやっていればな、ということ。それは、大学でサッカーをするようになって、痛感しました。

 ――大学生になって、サッカーのことをより意識するようになったきっかけが何かあったのですか?
 伊東 1年生の頃に、サッカーの面というよりも、私生活の部分でかなり監督に怒られたことがあって……。

 ――具体的にはどういった部分を?
 伊東 髪が長いとか、爪が長いとか…本当に細かいところです。よく「だらしない」と、ガッツリ怒られていました。

 ――監督に私生活の面で指摘を受けながらも、試合には1年生の頃から出場していました。その中で壁にぶつかったことは?
 伊東 僕が1年生時の4年生には(佐々木)翔くん(現甲府)がいたのですが、ここぞという場面では翔くんが試合を決めてくれ、僕は自由にプレーすることができたまた、チームも関東大学サッカーリーグ1部に残留することができました。でも、2年生になると、まったく試合に勝てなくなってしまって…。

 ――その原因は?
 伊東 まず、ボールを持つことができてなかったですし、決めるところで決められていなかった。練習では「やろうぜ!」と気合いは入っているのですが、いざ試合になると、例えば先制点を決められたりすると、そこからずるずる崩れてしまって。その、負のサイクルからなかなか抜け出すことができなかったですね。結局、シーズン中に改善することができないまま、シーズンが終わってしまったという感じです。

 ――そして2部降格。
 伊東 本当に悔しかったですし、1年で必ず1部に復帰してやろうと思い、以前にも増して練習からガツガツいくようになりました。それは僕だけではなく、チームみんながそういう雰囲気になっていたと思います。
 3年生になった昨年は、「大学サッカー最後の年となる14年は1部でプレーしたい!」という気持ちは強かったですし、自分たちの代で試合に出ている選手も多かったので、その分、気合いも入っていたのですが…。残念ながら1部昇格はできませんでした。

 ――チームみんなが同じ気持ち、方向に向かってリーグ戦に臨んでいたと思いますが、1部昇格するためには、何が足りなかったと思いますか?
 伊東 後期だけを見れば1位だったんですけどね。前期…特にスタートあたりでチームがまとまりきれていなくて、順位的にも10位あたりまで落ちてしまった。切羽詰まった状態になって、そこからみんなが「このままではやばい」と、エンジンをかけ直したことで、最終的には4位という順位で終わることができた。そこでの戦いを最初から行うことができていればよかったですよね。

 ――チームとしては1部昇格を目標とする中で、個人的にはどんなプレーを心掛けていましたか?
 伊東 とにかく結果を出そうと考えていました。そういう意味ではやはり『得点王』という形が分かりやすいので、狙っていましたし、それを達成するためにも、毎試合得点を目標に掲げていました。プレーそのものでいえば、最初はサイドでプレーしていたのですが、1トップになったので、裏を取ったり、こぼれ球を狙ったり、とにかく貪欲にゴールを狙うこと、ゴールに近いところで、得点に結びつく動きをしようと思っていました。(後編に続く)

 ◆伊東純也(いとう。じゅんや)1993年3月9日神奈川県生まれ。小学1年でサッカーを始め、鴨居SCに加入。その後、横須賀シーガルズジュニアユースを経て、逗葉高に。11年神奈川大人間科学部に入学。12年度デンソーカップチャレンジ関東選抜A、13年度デンソーカップチャレンジ関東選抜B。昨季の関東大学サッカーリーグでは17得点を挙げ、2部得点王に輝いた。175センチ、65キロ

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